ティルマン時代および権利の剥奪 1890年-1914年
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「サウスカロライナ州の歴史」の記事における「ティルマン時代および権利の剥奪 1890年-1914年」の解説
1890年、ティルマンは知事選に目を付けた。農民達がその立候補で結集し、容易に保守派民主党の候補者アレクサンダー・ハスケルを敗った。保守派は州内の農民運動の力を掴むことに失敗した。彼らはもはや南北戦争で戦った者に自動的に尊敬の念を抱く世代ではなかった。それだけでなく、ティルマンの「ユーモアがあり下卑た演説が好みの問題で彼よりも繊細ではない大衆にアピールした。 ティルマンの動きは多くの提案や持論を法制化することに成功した。その中でも、新しい州憲法の制定とアルコールに対する州専売制度が上げられる。ティルマンは「黒人が支配することについて病的な怖れ」を持っていた。 白人特権階級はアメリカ合衆国憲法修正第15条に抵触することなく黒人や貧しい白人から参政権を取り上げる規定を含む新しい憲法を作った。このことは主に、人頭税やアフリカ系アメリカ人や貧しい白人に悪影響を生む識字試験のような有権者規制に関する規定を通じて成し遂げられた。1895年に新憲法が発布され、投票権は実質的に白人のみに限定された。 レコンストラクションの間、州議会下院では黒人議員が過半数を占めていた。新しい制度では14万人の黒人のうち約15,000人のみが有権者登録する資格があるということを意味した。実際に白人登録官によって管理される主観的な有権者登録方法によって、さらに多くの黒人が投票を禁じられた。さらに、民主党予備選挙は白人のみに限定された。1896年10月までに、黒人が過半数という状況の中で、白人党員は5万人いたのに対し、黒人は5,500人に過ぎなかった。 1900年の国勢調査で参政権の制限程度がわかる。アフリカ系アメリカ人は州人口の58%となっていたが、総計で781,509人の市民が基本的に参政権がなかった。参政権の喪失は教育のある者にも教養のない者にも影響した。その利益を代表する者がいないということは黒人が州内で不公平に扱われていることを意味した。黒人は陪審員になることもできなかった。差別された学校や公共サービスは予算不足となった。法の執行は白人に支配された。アフリカ系アメリカ人は1964年および1965年に公民権運動が連邦法の成立を勝ちとるまで、参政権を復活させることができなかった。 「ベン・ティルマンの赤ちゃん」と呼ばれた州専売制度は州内で決して好評を得られず、その執行についてはダーリントンで暴動が起こった。1907年専売法が撤廃された。1915年、アルコールの合法的な販売は住民投票によって禁止された。 ティルマンのサウスカロライナ政界における影響力は、1895年に合衆国上院議員に転じた後に衰え始めた。民主党保守派が1902年に再度議会を抑えた。貴族的農園主ダンカン・クリンチ・ヘイワードが知事選で勝利した。かれらは基本的な変化は起こさず、事実、ヘイワードは専売法を大きな困難の中で強制し続けた。州内は急速な工業化を続けており、このことが新しい有権者階級、すなわち綿糸工場労働者の増加となった。 白人小作人や工場労働者が、1910年の知事選ではティルマン支持者のコールマン・ブリーズの後援でまとまった。彼らはブリーズが彼らを州政治力の重要な一部にしようとしていると信じた。しかし、ブリーズは知事に就任すると、工場労働者や貧しい農民に恩恵があるような政策を何も始めなかった。その代わりにブリーズの4年間の任期は非常に突飛な行動に終始した。このことで1914年の知事選では改革派のリチャード・マニングが勝利する道を作った。
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