タコヤキストになるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 09:38 UTC 版)
兵庫県西宮市出身。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}地元西宮では、たこ焼きといえば明石焼き(あかしやき、地元では玉子焼、卵焼きと呼ぶことが多い)のことであった。子どものころ、大阪の屋台で初めてソース味のたこ焼きを食べて驚愕。大阪のたこ焼きと明石焼きの違いに素朴な疑問を感じ、たこ焼きに興味を持つ。これが後年、日本文化・生活文化の研究テーマとして、食文化としてのたこ焼き研究に挑む契機となった。[要出典] 高校時代から、京都学派の拠点のひとつでもある社団法人現代風俗研究会(1976年9月発足、初代会長・桑原武夫)に所属していた[要出典]。同研究会の桑原武夫、多田道太郎、鶴見俊輔らに師事し、たこ焼き研究を志すことになった(熊谷は後年、多田道太郎を恩師と呼んでいる[要出典])。社団法人現代風俗研究会では事務局を担当した。 それまで、たこ焼きについての本格的な研究はなされていなかったため、文献・資料などはほとんどなく、地道なフィールドワーク・取材をこなし、立命館大学産業社会学部の卒業論文「現代食事文化論-大阪文化としてのたこやきとその象徴的意味論のための一考察」をまとめる。[要出典] 立命館大学卒業後は同志社大学大学院に進学し、同時に結婚(23歳)[要出典]。1993年、10年間のフィールドワークをまとめた著書『たこやき』をリブロポートから出版。同年、東京都渋谷区を中心に『京たこ』騒動(渋谷公園通りのたこ焼き屋「京たこ」「京風たこ焼き亭」などによる、俗に「渋谷たこ焼き戦争」と呼ばれる争い)を震源とする全国的なたこ焼きブームが起きた。また、翌年の関西空港開港で大阪は全国から注目を浴びており、大阪ブームに火が付く頃でもあり、『たこやき』は各界から注目されて評判を呼んだ。[要出典]同書は、現代風俗研究会の橋本峰雄賞を受賞した。 「築地銀だこ」など大手たこ焼きチェーン店(フランチャイズ店)が続々と誕生し、また冷凍たこ焼きなどの販売も盛んとなったため、執筆、講演、シンポジウムのパネリスト依頼などが相次ぎ、各地のたこ焼きやコナモン料理を食べ歩きつつ、仕事をこなした。[要出典]また1995年には、自ら作詞作曲した『たこやき音頭』など、たこ焼きの曲ばかりを集めたCDアルバム『たこやき』を発表して話題を呼んだ。また、自らをタコヤキストと称し、ウェブサイト「たこやき研究家 熊谷真菜のページ」を立ち上げた[要出典]。
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