ソ連・中国の朝鮮半島政策
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「南北等距離外交」の記事における「ソ連・中国の朝鮮半島政策」の解説
「ロシアと朝鮮の関係」も参照 ソビエト連邦及び中華人民共和国は長らく韓国との国交が無く、北朝鮮とのみ外交関係を有していた。 1988年2月に韓国で盧泰愚が大統領に就任すると、経済分野とスポーツ分野において中華人民共和国・ソビエト連邦・モンゴル・ベトナムなどの社会主義国と韓国との交流が活発化し、多くの社会主義国が1988年ソウルオリンピックに参加した。韓国政府はこれらの社会主義国に対する政策を「北方政策」「北方外交」と位置付けて推進した。 1985年3月にソ連でミハイル・ゴルバチョフが指導者となり、ペレストロイカが進むにつれて、ソ連は改革に不快感を示した北朝鮮ではなく、韓国との関係を重視するようになった。 国際連合の加盟を目指す韓国にとってもソ連との国交樹立は重要であり、1990年9月30日にソ連と韓国の国交が樹立された。 ソ連との国交樹立に続き、1992年8月24日には中華人民共和国と韓国の国交が樹立された。またこれに先立って、それまで韓国と外交関係を有していた中華民国は8月22日をもって韓国と断交した。 1991年12月にソ連が崩壊してロシア連邦が成立すると、ロシアは当初「軽朝重韓(北朝鮮軽視・韓国重視)」の朝鮮半島政策をとった。1992年11月にボリス・エリツィンが韓国を訪問して「露韓関係基本条約」、1994年には「建設的相互補完パートナー関係」を締結した。これ以降ロシアは北朝鮮核問題に関して韓国の立場を支持する事を表明し、両国間の貿易・経済交流は活発化した。 北朝鮮はソ連・中国の対韓政策に不快感を示し、ソ連に対しては1961年7月に締結したソ朝友好協力相互援助条約に基づく軍事同盟の強化などを求めていたが、ソ連と韓国の国交樹立後は急速に両国関係が悪化した。ソ連崩壊後にロシアは北朝鮮に対する経済支援の打ち切りと貿易優遇政策(バーター貿易を認める政策)の放棄を決定し、貿易において現金決済を求めるようになり、1993年には「ソ朝友好協力相互援助条約」の「北朝鮮の安全保障における無条件保障の義務」を破棄し、事実上北朝鮮との軍事同盟を解消した。 しかし北朝鮮との関係悪化はロシアの朝鮮半島に対する影響力の低下を招いた為、1990年代中頃から「南北等距離」外交政策へと転換した。1995年9月にはロシア側の申し出によって「露朝友好協力条約」が締結され、北朝鮮に対する機械工業・石油など8つの分野における大規模な支援が進められた。1996年4月には両国間で経済交流と政治的対話を復活させる事が決定され、そして1999年3月には「露朝友好善隣協力条約」に仮調印した。 これと同時にロシアは韓国との関係強化にも力を注ぎ、ロシアと韓国は1995年5月に「軍事秘密保護協定」、1996年11月には「軍事協力覚書」に調印した。 2000年5月にウラジーミル・プーチンが大統領に就任した後は、ロシアと韓国の関係はより一層緊密になり、2004年9月に盧武鉉大統領のロシア訪問に伴って、ロシアと韓国の「全面的協力パートナー関係」が宣言され、ロシアの石油の共同開発やパイプライン建設などが決定された。
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