セシル親子との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 06:55 UTC 版)
「ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)」の記事における「セシル親子との対立」の解説
ルーアンから帰国すると友人や支持者からの勧めで、軍人としての功績を求めて海外に出るより、国内にとどまって政治家として地保を固めることを目指すようになった。しかしその結果、宮廷内にセシル親子(宰相初代バーリー男爵とその息子ロバート・セシル)の派閥とエセックス伯の派閥ができて対立が深まった。 1590年に国王秘書長官ウォルシンガムが死去すると、国王秘書長官の実務はセシル親子が掌握し、一方ウォルシンガムの諜報網はエセックス伯が受け継いだ。さらに1593年2月には枢密顧問官に列した。 エセックス伯の周囲にはセシル親子に排除された人々が集うようになった。法律家・庶民院議員フランシス・ベーコンもその一人であり、レスター伯とウォルシンガムに仕えていた彼はウォルシンガムら亡き後義理の伯父に当たるバーリー卿を頼りにしたが、バーリー卿が自分を支援してくれないことに失望して1591年頃からエセックス伯派に転じ、ウォルシンガムの諜報網再建に貢献した。ベーコンの兄アンソニー・ベーコンも諜報網のまとめ役としてエセックス伯に仕え、ベーコン兄弟をブレーンにしてからエセックス伯は政治家としての能力・知識を高め、枢密院会議や貴族院に必ず出席するようになった。 エセックス伯は、自分の取り巻きを高官職につけることに腐心した。1593年には法務長官トマス・エジャートンが国璽尚書兼大法官に昇進したのに伴って法務長官ポストが空席となったが、その後任人事をめぐって、エセックス伯がフランシス・ベーコンを推したのに対してセシル親子は法務次官(英語版)エドワード・コークを推して対立が深まったが、結局この件はエリザベス女王が1594年にコークに決定したことでセシル親子の勝利に終わった。 ついでエセックス伯は、女王暗殺を企んだとしてポルトガル・ユダヤ人の女王侍医ロドリゴ・ロペス(英語版)を逮捕したが、長く女王に仕えてきたロペスが今更そんなことをするはずがないと考えたセシル親子は、冤罪と主張し、再びエセックス伯と対立した。女王もはじめ冤罪と考え、エセックス伯を叱責したが、まもなくエセックス伯の説得で翻意し、ロペスの取り調べを許した。エセックス伯は世論の反ユダヤ主義が高まったのを好機として、ロペスを是が非でも犯人に仕立て上げようとし、拷問の末に「自白」を引き出して裁判にかけて有罪に追い込んだ。結局セシル親子も擁護を断念し、ロペスは処刑された。エセックス伯派はロペスの有罪判決が出た際に勝利の勝鬨をあげている。
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