セイラムでの暮らしと追放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/05 18:27 UTC 版)
「ロジャー・ウィリアムズ」の記事における「セイラムでの暮らしと追放」の解説
プリマスでの牧師生活の終り頃、ウィリアムズの見解は植民地の他の者たちと論争を呼ぶようになった。プリマスの人々は直ぐにウィリアムズの考え方が分かり、特にインディアンに関してあまりに同情的であるとみなしたので、ウィリアムズはプリマスを去ってセイラムに戻った。 1633年の夏にセイラムに到着し、スケルトン牧師の非公式な助手になった。1634年8月にスケルトンが死に、代行牧師になってほとんど直ぐにマサチューセッツの当局と論争になり、教会を悩ませた「異なる新しい危険な意見」を広めた廉でセイラムの法廷に呼び出された後、数ヶ月のうちにセイラムから追放になった。ウィリアムズを追放した法律は、第488法案がマサチューセッツ議会で通過した1936年まで残った。 ウィリアムズは1635年頃、マサチューセッツ当局の執拗な抗議に対して、正式に教会の牧師の職を離れた。ウィリアムズが提起し飽くことなく強調した問題の概要は次の通りである。 ウィリアムズは英国国教会を背教者と見なし、英国国教会と共にやることは如何なるものも嘆かわしい罪だとした。その結果、この教会とだけでなく、それを否定するウィリアムズの教えに加わらない者とも交わりを放棄した。 ウィリアムズはマサチューセッツ会社がキリスト教徒としてのイギリス国王を偽って代行している故に、その土地特許を非難し、先住インディアンの土地に対しては、真のキリスト教徒である自分こそがそれを命題としていく権利があると考えた。ウィリアムズは植民者が「古いイギリスからやって来るときに」、特に迷信的な騒乱と暴君が支配していた時において、「非キリスト教徒の誓いを丸呑みにする」ことに不賛成を唱えた。ウィリアムズは国王に宛てて手紙を書き、土地勅許についての不満を表明し、著名な植民地人の裏書でそれを確実なものにすることを求めた。この手紙の中でウィリアムズは、ヨーロッパを「キリスト教世界」と呼んだことでジェイムズ1世を神への冒涜として告発し、君臨している王に啓示書の中でも最も不名誉なあだ名を当てたと言われている。 同じくらい不穏の要因だったのが、判事が植民者に忠誠の証を求めるために強制した「市民の誓い」に対するウィリアムズの反対だった。ウィリアムズは、そのような行いは誓いによってその地位を確立するためのキリストだけに許される特権だとし、宗教的に目覚めていない人はいかなる場合も宗教的な行動を行うよう求められるべきではないと主張した。この誓いを立てることに反対することで、ウィリアムズは多くの民衆の支持を得たので、この慣習は取りやめになった。 一片の土地(マーブルヘッド)の所有に関してマサチューセッツ湾植民地の法廷とセイラム植民地との間に論争が起こったとき、法廷はセイラムの教会がウィリアムズを牧師にした時に取った法廷と聖職者を軽蔑するような横柄な態度を改めることを条件に、セイラムの土地に対する要求を認める提案を行った。ウィリアムズはこの提案を賄賂にも等しい侮蔑的な試みと見なし、セイラムの教会にはマサチューセッツの他の教会に判事を協会員から外すように要求する糾弾書を送るように仕向けた。この行動は判事と教会をひどく不満にさせ、セイラムの教会に対してその牧師を排除するために多数の合意を得るように圧力が掛けられた。ウィリアムズは再び礼拝堂に入ることはなく、その信仰厚い崇拝者に対して自分の家での宗教的な活動を続けた。
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