スワー侯国の建国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 19:56 UTC 版)
詳細は「ムアン・スワー(英語版)」、「ファー・グム(英語版)」、および「ラーンサーン王朝」を参照 南詔王国の滅亡により各地へ拡散してムアンを形成していったラーオ族は、各地でそれぞれ独自の発展を遂げ、タイ北東のチェンセーンにムアンを形成したグループは後にチェンマイ王国、スコータイ王国を建国し、今日のタイ王国を形成していったタイ族の父祖グループと位置づけられ、メコン川上流のスワーにムアンを形成したグループは後述するムアン・スワー(英語版)、ラーンサーン王国を建国し、今日のラオス人民民主共和国の父祖グループと位置づけられるなど、民族の分化がこの頃より始まった。その他国家としての発展を見ないまでも、ミャンマーのシャン州などにムアンを形成したグループなども人口としては多い。 ラーオ族が移動した地域の大部分は当時クメール帝国の支配下、あるいはモン族・ハリプンチャイ王国の支配下にあり、ラーオ族はこれら先住民族の支配力の薄いところへムアンを形成していった。 メコン川上流のムアン・スワーは、698年にムアン・タン(英語版)(現在のディエンビエンフーのムアン・タン(英語版)付近にあった都市国家)のクーン・ロー(英語版)王子に征服された。ローの父、クーン・ボロム(英語版)王は、クーン・ローをスワー侯国の王に据えた。 チェンセーンに作られたムアンはチェンセーン支分国(あるいはムアン・ヨーノック)と呼ばれ、南詔王国・皮羅閣王の息子シノナワットにより統治されたが、四代目国王バンカラットの時代に内紛が勃発し、1080年にクメール帝国に奪取されてしまう。バンカラット王はさらに南へ脱出し、1099年に息子プロマラットにより再奪還を成し遂げた。この勝利を記念し、ムアン・ヨーノックはヨーノック・チャイヤブリーと改名された。しかし、次代のチャイシリ王の時代には同じラーオ族のシャン族の襲来を受け、都市は壊滅的な打撃を受けた。チャイシリ王はチェンセーンを破棄し、今日のスコータイ周辺に新しいムアンを形成した。 このようにラーオ族のムアンは弱小勢力を迎合し、さらに強大勢力に攻撃を受けてはまた新しいムアンを形成するといった勃興を繰り返しながら歴史を重ねていく群雄割拠の状態にあったが、13世紀初頭に始まった元の進軍と、名君ジャヤーヴァルマン7世の死去およびその後継者争いによるクメール帝国の弱体化をきっかけとして大きな変化を見せるようになり、1238年、すでにスコータイとカーンペーンペット近郊にムアンを形成していた一族をバンクラン・タオが纏め上げてスコータイ王国を建国。次いで1259年、パヤオにムアンを形成していた一族とチェンラーイの一族が中心となり、マンラーイを国王とするチェンマイ王国(ラーンナー王朝)が建国された。 チェンマイ王国は建国当初は王都をチェンラーイとしていたが、すぐにファーンへ遷都し、その後1296年に今日のチエンマイを王都と定めた。しかし、マンラーイはチエンマイに定住することはなく、息子の一人を監督官に任じ、自身はチェンラーイから執政を行った。マンラーイ王の下、パヤオ王国を併合するなどチェンマイ王国はその版図を着実に広げていったが、パユー王の時代になると辺地の領主が離反するなど、その権威は徐々に低下した。同時期、同様に興ったスコータイ王国においてもウートンの領主、ルアン・パンヌアが離反し、内部分裂状態になるなどしていた。 一方、メコン川上流のスワーにスワー侯国を形成していたラーオ族の一派はスコータイ王国建国後は同王国の支配下となった。このスワー侯国21代目のカムポーン(英語版)王が1334年に死去すると、王位継承権を巡り内乱が勃発した。孫のファー・グム(英語版)はクメール帝国のアンコール・トムへ留学し教育を受けていたが、1343年に父クーン・フィファ(英語版)王がカム・ヒャオ(英語版)に王位を奪われたとの知らせを聞くと、クメール王女ケオ・ケーンカンヤー(英語版)と結婚し、クメール王より1万の軍勢を借りて挙兵した。ファー・グムは、スワーを奪取すると、スコータイ王国権威の低下を契機として各地ムアンを占領した。1353年に初のラオス統一王朝「ラーンサーン王国」を建国し、ファー・グムが初代の王に就いた。ラーンサーン王国は今日のラオス人民民主共和国の民族的、国家的な礎となった。
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