スタンプ絵画と痕跡の絵画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/24 09:20 UTC 版)
「アルマン (美術家)」の記事における「スタンプ絵画と痕跡の絵画」の解説
アルマンは1928年11月17日、フランス南部ニースで古道具屋を営む、北アフリカからの移民の一家に生まれた。10歳の頃にアマチュア画家で写真家、チェロ奏者でもあった父親から油絵を習い、音楽や楽器への興味を持った。学校とは折り合いが悪く、高校を中退し、1946年にバカロレア(大学資格試験)に合格して入ったニースの国立美術学校にも不満を持ち、後に退学している。 1947年、彼はニースの警察の柔道教室に入門し、後の芸術上の盟友イヴ・クライン、クロード・パスカルの2人と知り合った。彼らは3人でヨーロッパ各地へヒッチハイク旅行をしたほか、ファースト・ネームだけをサインしたゴッホにならって姓を捨て、ニースの海岸で真っ青な世界を3分割する相談をした。アルマンは大地を、パスカルは海を、クラインは空を取ったといわれている。 1949年、美術学校を退学したアルマンはパリに移り、エコール・ドゥ・ルーブルに入ってシュルレアリスム風の絵を描いていた。1951年、彼はマドリードへクラインとともに「武士道会」の柔道講師として赴き、また兵役についた後、1953年にニースへ戻った。 アルマンは美術の中心地から離れた場所にいることに焦りながら、雑誌で読んださまざまな作家の影響を受けて、徐々に抽象的な作風へと画風を変えたが、1954年に戦前のハノーファーのダダイスムの作家クルト・シュヴィッタースの、廃物を寄せ集めたアッサンブラージュの作品の展覧会を見て、衝撃を受けた。彼はシュヴィッタースがゴム印を紙に押して描いたドローイングを頭に置きながら、働いていた事務所にあったさまざまなスタンプを何度も何度もキャンバスに押すスタンプ絵画(彼はこれをカシェ(Cachets)「印」と呼んだ)を作り始めた。アルマンは黒や赤のスタンプを押したりずらしたりしながら構成(コンポジション)を作り、やがてゴム印以外のピストンや楽器、マネキンなどのオブジェに色を塗り、キャンバス上を動かす痕跡絵画も始めた。1956年にはパリで、スタンプ絵画などによる初個展を開き、成功を収めた。
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