スキャパレッリとの競争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 02:46 UTC 版)
「ココ・シャネル」の記事における「スキャパレッリとの競争」の解説
シャネルのクチュールは1935年までに4,000人を雇用する営利企業になっており大きな利益をあげていた。しかし1930年代の間に、オートクチュールの王座におけるシャネルの地位は脅かされるようになった。1920年代のフラッパーのボーイッシュな装いと短いスカートは瞬く間に姿を消した。ハリウッドの映画スター用のシャネルのデザインは成功せず、期待されたほどには彼女の名声を高めなかった。さらに深刻だったのは、最大のライバルであったエルザ・スキャパレッリがシャネルを上回る評判を呼んだことである。シュルレアリスムへの遊び心ある援用で満ちていたスキャパレッリの革新的デザインはファッション界において圧倒的な賞賛を集め、熱狂を生み出した。 さらに、1936年にフランス全土で発生した大規模なゼネストが苦境にあったシャネルをいらだたせた。シャネルのクチュールで働く従業員・お針子たちもまた、有給休暇や週給制の実施、労働時間の短縮などを求めてストライキに突入し、シャネルは自分の店から追い出された:175。シャネルは従業員側のあらゆる要求を拒否しようとし、後にこのストライキに参加した人々を「病気」だと罵っている:172。しかし、スキャパレッリとの競争のために強硬姿勢を貫くことができず、次シーズンのコレクションの発表が不可能になる段まで話が進むと、譲歩を余儀なくされた:175, 179。彼女はストライキに参加した従業員を恨み、この経緯を長く引きずることになる:179。 強力なライバルの出現、従業員の反乱に加え、この時期のシャネルはスランプにも悩まされていた:181。彼女はジャン・コクトーの依頼を受け、彼が台本のオペラ『エディプス王』でコラボレーションした。この時に彼女がデザインした衣装は俳優の背格好や肌の色ごとに長布を巻くというものであったが、評論家からも観客からも惨憺たる評価で迎えられた。エドモンド・シャルル・ルーはこれについて「あまりに醜悪で、負傷者かおむつをあてた赤ん坊にしか見えなかった」と言う評を紹介している:182。彼女はまたバレエ・リュス・ド・モンテカルロの作品、『バッカス祭(Bacchanale)』の衣装にも関与した。衣装デザインはサルバドール・ダリによって行われた。しかしながら、1939年9月3日にイギリスが対独宣戦布告を行ったことで、バレエ・リュスはロンドンへ去ることを余儀なくされた。彼らがヨーロッパに残した衣装は、ダリの最初のデザインに従ってカリンスカ(Karinska)によって作り直された。
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