スキャリフホリスとアルスター軍の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/03 21:52 UTC 版)
「クロムウェルのアイルランド侵略」の記事における「スキャリフホリスとアルスター軍の崩壊」の解説
詳細は「スキャリフホリスの戦い」を参照 残されたアイルランド人と国王派の中でもっとも強大なものは6,000人を擁するアルスターの軍団で、これは1649年に死亡したオーウェン・ロー・オニールが以前率いていたものであった。しかしこの軍団は当時、ヒーバー・マクマホン(英語版)という経験未熟なカトリック司教が率いていた。 アルスター軍は6月にドニゴール(英語版)で、おもにイングランド移民で構成される議会軍およびマウントラス伯が率いる軍と激突した(スキャリフホリスの戦い(英語版))。アルスター軍は総崩れとなり2,000人もの戦死者を出し、マクマホンや大部分のアルスター軍の指揮官が戦死もしくは捕らえられ処刑された。最後の強大な反議会派野戦部隊が敗退したことにより、議会派はアルスターの北部を確保した。マウントラス伯の軍は北部におけるカトリック勢力最後の拠点チャールモント(英語版)における包囲戦(チャールモント包囲戦(英語版))で大損害を受けたにもかかわらず、アイルランド南部および西海岸になだれ込むことができた。
※この「スキャリフホリスとアルスター軍の崩壊」の解説は、「クロムウェルのアイルランド侵略」の解説の一部です。
「スキャリフホリスとアルスター軍の崩壊」を含む「クロムウェルのアイルランド侵略」の記事については、「クロムウェルのアイルランド侵略」の概要を参照ください。
- スキャリフホリスとアルスター軍の崩壊のページへのリンク