ジョーンズタウン訪問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 16:04 UTC 版)
「ジョーンズタウン」の記事における「ジョーンズタウン訪問」の解説
ライアン代表団が当初ガイアナに到着した際、最初レーンとゲイリーはジョーンズタウンを訪れる事を拒否した。しかしながら、11月17日の朝になって、ジョーンズの意思とは関係なくジョーンズタウンに向かう旨を代表団は通告した。ライアンの一団は、レーンとゲイリーを伴って、数時間の後にはポート・カイトゥマ(英語版)まで空路でやってきた。航空機の人数制限のため、憂慮親族の代表の内、4人のみが代表団とともに搭乗することが許された。 ライアンのほか3人のみが当初ジョーンズタウンへの訪問を許可され、残りのメンバーは日没後に訪問が許可された。その夜、代表団はパビリオンで音楽付きの歓迎会に参加した。代表団は暖かく迎え入れられたが、ジョーンズは瀕死の男のように感じたと言い、マスコミによる攻撃を非難すると同時に政府の陰謀と殉教について怒鳴る様に語ったという。後に、調査員によって発見された音声テープによって明らかになり報告されたことだが、ジョーンズは住民がみな幸福で満足して暮らしているとライアン代表団に信じさせるためにリハーサルを行っていたという。 ヴァーノン・ゴスニーとモニカ・バグビーと名乗る2人の信者がその夜、最初に脱退のための活動を開始した。パビリオンにおいて、ゴスニーはハリスをライアンと間違えてノートを手渡した。そのノートには次のように書かれていた。「親愛なる議員様、ヴァーノン・ゴスニー、モニカ・バグビーより。どうか私たちをジョーンズタウンから助け出してください」 ライアン、スペア―、ドワイヤーとアニボーンは、ジョーンズタウンの中に宿泊したが、残りのメンバーは他の宿泊施設を見つける必要があると伝えられた。そのため、彼らはポート・カイトゥマに戻り、小さなカフェに宿泊することとなった。 11月18日の早朝、11人の教団信者達が危険を察知して、ジョーンズタウンを抜け出してポート・カイトゥマと反対方向にあるマシューズ・リッジ(英語版)へ徒歩で避難した。この離反者達の中には、ジョーンズタウンの安全長官ジョー・ウィルソンの家族も含まれていた。記者や憂慮親族のメンバーが同日にジョーンズタウンに到着した時、マルセリーヌ・ジョーンズは彼らをジョーンズタウンのツアーに案内している。 同日午後、パークスとボグーの家族が義理の家族のクリストファー・オニールとハロルド・コーデルとともに、ジョーンズタウンから連れ出してほしいと、ライアン代表団に依頼した。ジョーンズの養子であるジョニーがジェリー・パークスに脱退者から外れる様に頼んだが、パークスは彼に向かって「とんでもない、共産主義者の収容所にすぎないのに」と言い拒否した。ジョーンズは、ゴスニーとバグビーを含む二家族のジョーンズタウン離脱を許可した。パビリオンでのインタビューの最中、ハリスがゴスニーのノートをジョーンズに手渡した時、ジョーンズは離反者達は嘘をついていて、ジョーンズタウンを滅亡させることを望んでいると語った。 突然の猛烈な暴風雨が始まった後、家族間の感情的な場面が生まれた。ネイティブ・アメリカンの人民寺院信者、アル・サイモンが、2人の子供たちをライアンに引き渡し、アメリカ合衆国に戻る為の事務手続きを行うように願い出た。アルの妻ボニーが、人民寺院のスタッフによって拡声器で呼び出され、大声で夫を非難した。アルはボニーと共にアメリカ合衆国へ戻りたいと弁明したものの、ボニーは彼の言葉に聞く耳など持たなかった。
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