憂慮親族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 16:04 UTC 版)
詳細は「ティモシー・ストーン(英語版)」を参照 一方で、1977年後半から1978年初頭の間、ティム・ストーンとグレース・ストーンは、人民寺院離反者のジャーニー・ミルズ(英語版)の家で、他のジョーンズタウン居住者の関係者との会合に参加した。併せて、彼らは彼ら自身のことを「憂慮親族」 (英語: Concerned Relatives)と呼んだ。ティム・ストーンは、アメリカ合衆国国務長官とガイアナ政府へのキャンペーンレターを作成した。加えて、捜査を試みるためにワシントンD.C.へと赴いた。1978年1月、ストーンはアメリカ合衆国議会への白書を書いている。この中では、彼は自身の不満について記述するとともに議員達がガイアナ首相・バーナム(英語版)へ文書を書くことを希望する旨を記載していた。91人の議員たちが、この様な書簡を書いており、その議員の中にレオ・ライアンも含まれていた。 1978年2月17日、ジョーンズはサンフランシスコ・エグザミナーの記者ティム・ライターマンとのインタビュー記事を提出した。ライターマンのストーンの保護裁判に関する次の記事は、人民寺院による訴訟の脅威を引き起こした。この反響は、人民寺院の評判に大きな脅威となった。そして、かつて人民寺院を「右翼の復讐者」の犠牲者であるとして支持していた人たちをより懐疑的にした。しかしながら、それでも忠実な人々がいた。ライターマンの書籍が発売された後、サンフランシスコ監理委員会のメンバーで、人民寺院支持者のハーヴェイ・ミルクは、当時のアメリカ合衆国大統領・ジミー・カーターに対して、ジョーンズを「最高の品位を持つ人物」であると擁護する手紙を送っている。更にミルクはこの中で、人民寺院脱退者が、「あからさまで厚顔無恥な嘘」を使って「教祖ジョーンズの評判にダメージを与え」ようとしていると非難している。 1978年4月11日、憂慮親族達は「教祖ジェームス・ウォーレン・ジョーンズによる人権蹂躙の告発」 (英語: Accusation of Human Rights Violations by Rev. James Warren Jones)と題された文書集を、人民寺院やマスコミ関係者、アメリカ合衆国議員たちに配布し始めた。この中には、手紙に加えて宣誓供述書も含まれていた。1978年6月、レイトンはこの団体に、人民寺院による犯罪とジョーンズタウンの悲惨な生活実態を詳細に告発した宣誓供述書を提供した。 ティム・ストーンは、ジョーンズと他の人民寺院信者に対する民事訴訟を起こし、1978年5月から6月にかけて闘った。ストーンは3人の憂慮親族のメンバーを代表しており、合計で5600万ドルを超える損害賠償を請求した。チャールズ・R・ゲイリー(英語版)を代表とする人民寺院側は、ストーンに対して1億5000万ドルもの損害賠償請求を1978年7月10日に起こしている。
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