ジャーディン・マセソンの設立
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「ウィリアム・ジャーディン (船医)」の記事における「ジャーディン・マセソンの設立」の解説
1832年、ジェームス・マセソンと中国の広州市(沙面島)に「ジャーディン・マセソン商会」を設立。インドから清へのアヘンの密輸、フィリピンとの砂糖と香辛料の貿易、清の茶と絹のイングランドへの輸入、船積書類と積荷保険の取り扱い、造船所設備と倉庫の賃貸、貿易金融、その他貿易に関するあらゆる業務を取り扱った。 事業を急速に拡大させた結果、1841年には19隻の大型快速帆船を所有していた。当時、ライバル会社でこれに次ぐ数を所有していたのは13隻のデント商会(Dent and Company)ぐらいだった。同社はその他に数百の小型船・ロルシャと沿岸部と河川遡上用の小型の密輸艇も所有していた。 1830年代中頃から、清国ではアヘン貿易の代償に銀が大量に流出するのを恐れた当局が締め付けを強化したため貿易が次第に困難になっていた。この貿易不均衡は、西欧の貿易会社が取り扱う清国産の茶や絹の輸出額よりもアヘンの輸入額が高かったことを意味する。 しかし、ジャーディンは清でのアヘン取引の拡大を望み、対清貿易で強硬姿勢を取るよう政府を説得するためジェームス・マセソンをイギリスに派遣した。ジェームス・マセソンは『鉄の公爵』と呼ばれた外務大臣ウェリントン公に面会したが門前払いを食わされ、「傲慢で愚かな男に辱めを受けた」とジャーディンに報告した。1836年にジェームス・マセソンがアジアに戻ると、ジャーディン自らがイギリスに向かうことになった。ジャーディンの出発前に同業のアヘン密輸業者が寄せた期待をウィリアム・ハンターが次のように記している。 「ジャーディンの広東出発を数日後に控えた外国人社会は、東インド会社の工場の食堂で晩餐会を開いた。国籍もさまざまな80人ほどが出席し、夜が更けても誰も立ち去ろうとしなかった。これは今でも在留者の間でよく話題になる」 ジャーディンの出国を聞いて喜んだ清国政府は、早速アヘン貿易の停止に踏み切った。広州の麻薬取締を命じられた林則徐は、「鉄の頭の老いた鼠よ、悪賢くいかさまなアヘン密輸の首謀者は中華帝国の天罰を恐れ霧の国へと去った」と喝破して、すべてのアヘンの没収を指示した。その数は広州で2万ケース以上になった。彼はまたアヘン犯罪の頭目としてデント商会の経営者ランスロット・デントの逮捕を命じ、清への麻薬密輸について釈明を求める書簡をヴィクトリア女王宛に送付した。
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