シンラウとは? わかりやすく解説

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秦朗Qin Lang

シンロウ
(シンラウ)

(?~?)
魏驍騎将軍・征蜀護軍給事中

字は元明幼名阿蘇明帝紀》、あるいは阿《同集解》。秦宜禄の子秦秀の父《明帝紀・晋書秦秀伝》。

『晋書』秦秀伝に拠ると本県は新興郡雲中とある。建安二十年二一五)、雲中など四つの郡を合併して新興郡創立しているので、秦朗は本来、雲中郡の人だったはずである。

杜氏曹操の側妾となり、父秦宜禄張飛誘い断って殺害された。秦朗は曹操宮殿養育されたが、曹操から非常に可愛がられた。曹操はいつも座にあった賓客たちに「わたしほど連れ子可愛がる者がいるだろうか」と語っていた《明帝紀》。このとき何晏連れ子として宮殿におり、どちらも実子のように可愛がられていたが、何晏恐れ憚りなく太子なみに着飾ったのに対し、秦朗は慎み深い性格だったので身分相応身なりだった《曹真伝》。

秦朗は曹操曹丕時代諸侯のあいだを渡り歩いたお咎めを受けることはなかった。明帝曹叡即位すると、彼に内向き官職与えて騎将軍・給事中とし、御車出かけるたびにいつも秦朗を随行させた。明帝検挙好み、しばしば些細な罪によって死刑になる者があったが、秦朗は最後まで諫めることができなかった。また優れた人物推薦することもなかった。そのため明帝は彼を親愛していつも相談役とし、呼ぶときは彼の幼名で「阿蘇と言うこと多かった。たびたびご褒美賜り、都の城内大邸宅を造ってもらった周囲の者たちは彼が無為無能であることを知っていたが、至尊側近だというので賄賂を贈る者が多く彼の資産公侯匹敵した明帝紀》。

発明家馬鈞給事中になったとき、散騎常侍高堂隆とともに古代指南車存在しない記録者でたらめだ」と批判している《杜夔伝》。

青龍元年二三三)、叛逆した鮮卑大人軻比能が、中国帰服していた大人歩度根謀叛軍に誘い入れた幷州刺史畢軌陰館進撃し将軍尚・董弼をやって鮮卑追撃させていたが、二将軍軻比能歩度根迎えるために出した騎兵千人余り遭遇して敗死した。そこで明帝は秦朗に中央軍統率させて討伐させると、鮮卑らは砂漠北方逃走した明帝紀》。

青龍二年(二三四)、諸葛亮十万余り軍勢率いて斜谷から押しだし、郿県渭水南岸に砦を築いた明帝はこれを憂慮し、秦朗を征蜀護軍として歩騎二万人監督させて派遣し司馬懿指揮下に置いた諸将渭水北岸待ち受けるべきと主張したが、司馬懿軍勢進めて諸葛亮防いだ諸葛亮は進むことができず五丈原敗北した晋書宣帝紀》。

景初二年(二三八)十二月明帝病床につくと燕王曹宇大将軍任じ、驍騎将軍秦朗・領軍将軍夏侯献武衛将軍曹爽・屯騎校尉曹肇とともに政治補佐させた。しかし中書監劉放中書令孫資権力寵愛久しく独占していたうえ、秦朗らとも仲が悪かったので、危害加えられるではないか恐れ、彼らを仲違いさせよう図った劉放曹宇退席しているあいだに内裏入り、「曹肇・秦朗はご看護才人冗談言いあって、燕王曹宇天子のごとく南面して臣らが入ることを許してくれません」と誣告し、曹爽司馬懿政治任せるよう訴えた明帝が「病気ひどくて詔書書けないと言うと劉放らは寝台上がって明帝の手をつかみ、むりやり詔勅を書かせ、それを持って退出すると「燕王曹宇詔勅によって罷免する」と叫んだ曹宇曹肇夏侯献・秦朗らは涙を流しながら自邸帰っていった。明帝翌年正月崩御し曹爽司馬懿実権を握るようになった明帝紀》。

参照何晏 / 夏侯献 / 軻比能 / 高堂隆 / 諸葛亮 / 秦宜禄 / 秦秀 / 尚 / 曹宇 / 曹叡明帝) / 曹爽 / 曹操 / 曹肇 / 曹丕 / 孫資 / 張飛 / 杜氏 / 董弼 / 馬鈞 / 畢軌 / 歩度根 / 劉放 / 渭水 / 陰館県 / 雲中郡 / 燕国 / 五丈原 / 郿県 / 幷州 / 斜谷 / 王 / 給事中 / 驍騎将軍 / 公 / 侯 / 散騎常侍 / 刺史 / 征蜀護軍 / 大将軍 / 中書監 / 中書令 / 屯騎校尉 / 武衛将軍 / 領軍将軍 / 才人 / 指南車 / 鮮卑 / 大人




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