コロリョフの死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 14:41 UTC 版)
「ソビエト連邦の宇宙開発」の記事における「コロリョフの死後」の解説
コロリョフは1966年1月に大腸癌の手術中に心肺停止し、死去する。ヴァシーリー・ミシンはコロリョフの後任として第1設計局長となり、1967年に有人月周回、1968年に有人月面着陸を果たす予定であった。 ミシンはコロリョフのような政治的権力を欠いており、他の設計局の主任たちとの競争と向き合わなくてはならなかった。この重圧の下、ミシンは1967年、無人試験に一度も成功していないにもかかわらずソユーズ1号の打ち上げを承認する。このミッションは設計上に問題が存在することが分かりつつも実行され、ソユーズ1号は地面に激突、ウラジーミル・コマロフを死亡させた。 この惨事による新たな重圧の下、ミシンは飲酒問題を起こす。1968年のアポロ8号による有人月周回によってアメリカに先を越されてしまい、ソ連は軽く打ちひしがれていたが、ミシンは問題のあったN-1ロケットの開発を推し進める。 1969年1月にソユーズ4号とソユーズ5号によるランデブー、ドッキング、船員移動が行われ、成功する。これらは月面着陸に使用される技術であり、LK着陸船の試験も地球軌道上で成功する。しかし、後のN-1ロケットの無人発射試験が4度失敗に終わり、開発が放棄される。これによってソ連は月面有人着陸を行う機会を失い、アポロ11号の人類初の有人月面着陸を許すことになる。 この失敗を受けて1970年、チェロメイは当時アメリカが宣言していたスカイラブ計画の対抗手段として、自身の推進するアルマース軍事宇宙ステーション計画がウスチノフによって承認されると確信した。 ミシンは未だ、後にサリュート計画となる宇宙ステーション計画の指揮権を持っていたが、サリュート1号にドッキングしたソユーズ11号の大気圏再突入時にクルー3人全員が死亡してしまった事故の致命的な原因が、圧力スーツなしで3人を乗せるという彼の決定にあったことが発覚し問題となった。 ミシンは多くの計画から外され、チェロメイはサリュートの指揮権を再び得た。NASAとのアポロ・ソユーズテスト計画の仕事の後、ソ連の司令部は新しい運営方法が必要だとして1974年に、N-1ロケット計画の打ち切りとミシンの免職を決定する。グルシュコを設計主任としてNPO エネルギア設計局が作られた。
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