ゲルク派の宗教改革とダライ・ラマ政権とは? わかりやすく解説

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ゲルク派の宗教改革とダライ・ラマ政権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 16:46 UTC 版)

チベット仏教」の記事における「ゲルク派の宗教改革とダライ・ラマ政権」の解説

ゲルク派は、ツォンカパ1400年頃に立宗した。カダム派の教え継承発展させ、新カダム派とも呼ばれたツォンカパは、従前中観派斥けて顕教中心に独自の中観帰謬(きびゅう)論証派の教義据えとともに過度タントラ主義否定して無上ヨーガ性的ヨガ)の頽廃禁じ密教中観の「無自性」を深く観ずるための禅定体系位置づけた。また、従来在家密教行者氏族中心宗派に対して厳格な戒律に基づく出家修行重視し僧院基盤とする教団組織した声聞乗説一切有部経量部)・菩薩乗顕教)・真言乗(密教)を統合した修道体系は、後期インド仏教目ざし方向性実現したとも言える1642年までにオイラト・モンゴルのグーシ・ハーングシ・ハン)がチベット大部分征服してグシ・ハン王朝樹立しダライ・ラマ5世擁立して宗派越えたチベット政治宗教最高権威に据えた以来ダライ・ラマ法王として戴くチベット中央政府、即ちガンデンポタン確立された。これにともないダライ・ラマ元来所属していたゲルク派は、グシ・ハン王朝のみならず隣接するハルハオイラトなどの諸国からもチベット仏教正統として遇され大い隆盛となる。一方覇権争い敗れた他宗勢力辺境勢力確保しブータンカギュ派系のドゥク派政権シッキムニンマ派政権成立したモンゴル交流のあった女真族満州族)から出た清朝は、モンゴルの諸ハーン王朝後継者としてチベット仏教保護者を以て任じ雍正帝によるグシ・ハン王朝滅亡後は、ダライ・ラマ政権直接的バックボーンとなった一方でチベット内外政の他、法王位の継承なども清朝干渉を受けるようになった。しかし清皇族はじめとする満州族にはチベット仏教篤く帰依する者も多く宗教活動自体保護を受ける面が強かった

※この「ゲルク派の宗教改革とダライ・ラマ政権」の解説は、「チベット仏教」の解説の一部です。
「ゲルク派の宗教改革とダライ・ラマ政権」を含む「チベット仏教」の記事については、「チベット仏教」の概要を参照ください。

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