ゲルク派の宗教改革とダライ・ラマ政権
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「チベット仏教」の記事における「ゲルク派の宗教改革とダライ・ラマ政権」の解説
ゲルク派は、ツォンカパが1400年頃に立宗した。カダム派の教えを継承・発展させ、新カダム派とも呼ばれた。ツォンカパは、従前の中観派を斥けて顕教を中心に独自の中観帰謬(きびゅう)論証派の教義を据えるとともに、過度のタントラ主義を否定して無上ヨーガ(性的ヨガ)の頽廃を禁じ、密教を中観の「無自性」を深く観ずるための禅定体系と位置づけた。また、従来の在家密教行者や氏族中心の宗派に対して、厳格な戒律に基づく出家修行を重視し、僧院を基盤とする教団を組織した。声聞乗(説一切有部・経量部)・菩薩乗(顕教)・真言乗(密教)を統合した修道体系は、後期インド仏教が目ざした方向性を実現したとも言える。 1642年までにオイラト・モンゴルのグーシ・ハーン(グシ・ハン)がチベットの大部分を征服してグシ・ハン王朝を樹立し、ダライ・ラマ5世を擁立して宗派を越えたチベットの政治・宗教の最高権威に据えた。以来、ダライ・ラマを法王として戴くチベット中央政府、即ちガンデンポタンが確立された。これにともない、ダライ・ラマが元来所属していたゲルク派は、グシ・ハン王朝のみならず、隣接するハルハ、オイラトなどの諸国からもチベット仏教の正統として遇され、大いに隆盛となる。一方、覇権争いに敗れた他宗派勢力は辺境に勢力を確保し、ブータンにカギュ派系のドゥク派政権、シッキムにニンマ派政権が成立した。 モンゴルと交流のあった女真族(満州族)から出た清朝は、モンゴルの諸ハーン王朝の後継者としてチベット仏教の保護者を以て任じ、雍正帝によるグシ・ハン王朝滅亡後は、ダライ・ラマ政権の直接的バックボーンとなった。一方で、チベットの内外政の他、法王位の継承なども清朝の干渉を受けるようになった。しかし清皇族をはじめとする満州族にはチベット仏教に篤く帰依する者も多く、宗教活動自体は保護を受ける面が強かった。
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