クワラルンプール攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 15:14 UTC 版)
第25軍はペラク河の橋梁が破壊されると、そのまま渡河して一気に連邦の首都であるクワラルンプールまで急追することを決し、12月25日夕に軍命令を下した。ペラク河の渡河は、第五師団が海上機動部隊との連携に便利な西方のブランジャ方面、近衛師団主力が東方のクワラカンサル方面と決定した。 第五師団では、12月26日に河村部隊の先遣大隊が砲火を冒して渡河に成功し、前岸の敵を駆逐して東部ブランジャに進出。27日、第五師団の戦列部隊の大部が渡河を終える。近衛師団では、12月25日午後6時に正木支隊が主力に先行してタイピンに進入し、近衛師団長は正木支隊の編成を解き、渡河掩護隊(近衛歩兵第4連隊)を先に渡河させて主力の渡河を掩護させることにした。26日、掩護隊に続いて近衛師団主力の渡河が開始し、先に渡河した掩護隊と英軍で戦闘が起き、27日夕に英軍は退却した。近衛歩兵第4連隊はイボウに向かい敗敵を追撃し、29日午前3時までにイボウ及びカンポンケパヤンを占領した。1月2日、師団司令部、第25軍司令部はイボウに進出した。 渡河後の作戦構想は第五師団を第一線として南進させ、近衛師団はゲマス方向に突進してクワラルンプール方面における退路を遮断するように使用する考えであった。 第五師団では、渡河後は余勢による追撃態勢で南進を続けていた。12月30日、歩兵第41連隊がカンポンクアラデイパンを通ずるカンパル河南方高地による英軍に阻止され、前進できなくなった。師団長は戦況が進展しないのを見て、歩兵第42連隊第二大隊(隊長は花輪逸市)に敵の側背に進出するための迂回行動を取らせ、歩兵第11連隊第一大隊(隊長は大本清人)も進出させカンポンクアラデイパン方面の英軍の右側背を脅威させたが、一部の敵と対峙することとなった。31日、大本大隊は午後5時ごろスンゲイシプト方面で攻撃前進に移り、花輪大隊は途中敵に阻止され前進目標のカンパル方面に進出することができなかった。師団は河村部隊に増援を送り、大本大隊方面の戦況の進展、カンポンクアラデイパン西方におけるカンパル河の渡河成功により英軍は退却をはじめ、カンパル付近の主陣地に後退した。師団長は河村部隊にカンパル占領まで攻撃させ、第42連隊(安藤部隊)に追撃させることに決め、1942年1月2日に英軍がカンパルから退却すると安藤部隊に追撃させた。6日午後6時ごろトロラックで英軍の激しい抵抗を受け、昼間攻撃をあきらめ、7日午前5時から戦車中隊(隊長は島田豊作少佐)を先頭に攻撃を開始。午前8時10分ごろトロラックに突入し、午前11時ごろスリムに突入した。島田少佐は九七式中戦車、九五式軽戦車が中核となった夜間突撃を敢行し、これにより1日で全縦深を突破し、逃げ遅れた英印軍1個師団を包囲し壊滅させた。第五師団は追撃目標をタンジヨンマリンからクワラルンプールに変更し、渡辺部隊を安藤部隊と交代させて追撃させ、1月8日午後4時第一線はタンジヨンマリンに進入し、英軍を撃破しながら進撃を続け、11日夜、師団長はクワラルンプールを占領して同地に兵力を集結しシンガポールに向かう作戦を準備することに決めて師団命令を下した。渡辺部隊は11日午後8時ごろクワラルンプールに進入した。 近衛師団では、1942年1月1日、カンパルで苦戦する第五師団に協力すべく、吉田支隊(近衛歩兵第4連隊第三大隊)を編成してテロクアンソン攻略に向かわせ、2日未明に占領した。また、第25軍は近衛師団の一部を第一線に使用することに決め、近衛師団は国司支隊を進撃させ、9日セランゴールを占領、11日午前12時、クワラルンプールの外港の背後にあるクランを占領し、クワラルンプールから海上への退路を遮断した。英軍はクワラルンプール付近で抵抗を企図していたが、日本の迅速な進撃により組織的抵抗の余裕を失い、1月10日に飛行場、停車場を自ら爆破し、11日にはほぼその撤退を完了していた。
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