クワンタン攻略
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1941年11月18日に締結された西貢協定では、第十八師団の主力で2月6日ごろクワンタン、メルシン地区に上陸作戦を行うように予定していた。これは戦況の推移により変更する性質のものであった。南方軍首脳部はこの上陸作戦を早期に敢行してシンガポール攻略を短縮してジャワ攻略までの全作戦日程を切り詰めようという構想を持った。12月13日、クワンタン攻略作戦(Q作戦)として南方軍総司令官寺内寿一大将の決済を得、メルシン、エンドウ方面の上陸作戦(S作戦)も研究された。 12月14日、南方軍が第25軍司令部に参謀を派遣してクワンタン作戦を中心とする新作戦構想の意見交換を行い、第25軍は佗美支隊にクワンタンへの転進を促進した。クワンタン作戦は、木庭支隊(第18師団二個大隊)をクワンタンに上陸させる作戦で、海軍側は強襲上陸を危惧したため、23日にSおよびQ作戦に関する作戦協定(総協第3号)が結ばれ、上陸に先行してシンガーポールの敵空軍を撃破すべきとする海軍側の意見が取り入れられた。 佗美支隊は12月9日にコタバル市を完全占領したが、前面には英軍が存在した。同支隊は兵力の集結整理を行った後、追撃を実施することに決め、12日午後1時ごろ、先遣隊(第3大隊主力)をタナメラ飛行場に向け追撃させ、ほとんど抵抗を受けずに13日午前3時に飛行場に進出して占領した。その後、マーチャン部落に前進し、銃砲火に阻止されて損害が出たが、後続部隊が攻撃に移ると英軍は日本の突入直前に退却し、日本は主力をマーチャンに留めて一部に追撃させ、14日朝、さらに前進して15日有力な英軍と戦闘になり、16日午後1時ごろ英軍は退却を開始した。南方軍は計画を一部修正してクワンタン上陸作戦を計画中で、上陸に合わせて佗美支隊の主力または一部を南下させて協力させることを要望していた。佗美支隊は攻撃を続け、18日午後ナール河南岸陣地を攻略、夜にはクワラクライに迫り、20日午前8時市街を占領した。これとともにクワンタン方面へ転進のため所要の命令を下した。 佗美支隊は12月22日未明からクワンタンへ転進を開始した。27日にはクワンタン北方地区に進出し、同支隊の迅速な行動により危険な上陸作戦を行う必要性が消滅しつつあった。同支隊は三方面からクワンタンに進撃し、12月31日には軍の要求通り同市付近一帯を奪取したが、飛行場は遠くクワンタン河右岸にあり、英軍主力の補足撃滅の企図も達成できなかった。1942年1月1日、クワンタン飛行場攻撃のため前進を開始、3日夜半飛行場占領。木庭支隊はQ作戦の中止に伴い、計画が変更されて12月28日コタバルに上陸し、陸路でクワンタンに到着した。
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