ギリシアの歴史学
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ニノス王とセミラミス女王の人物像が最初に登場したのは、アルタクセルクセス2世の宮廷医師として王家の歴史的記録を利用できると主張したクニドスのクテシアス(紀元前400年頃)の『ペルシア誌』(Persica)である。クテシアスの記述は後にシケリアのディオドロスによって拡張され、ニノスは楔形文字の解読がアッシリア史とバビロニア史のより正確な再構築を可能とする19世紀半ば以降まで、ヨーロッパの歴史家(アルフレッド大王など)に言及され続けた。 彼はベーロスまたはベルの息子であったと言われる。これは「主」を意味するバアル(Ba'al, 『旧約聖書』「列王記」17章でエリヤが反対した有名な「神」の名前)などのセム語族の称号を表す可能性のある名前である。クテシアスによるとニノスの治世は紀元前2189年に始まり、ロドスのカストール(英語版)によると、それは52年間続いた。ニノスはアラビアの王アリアイオスの助けを借りて17年間で西アジア全体を征服し、最初の帝国を建国した。アルメニアの伝説の王バルザネスを降伏させ、さらにメディアの王パルノスを打ち負かして、王とその妻および7人の子供をことごとく磔刑に処した。 インドとバクトリアを除くすべての近隣アジア諸国を征服し、王都ニネヴェを建設したニノスは、約200万の遠征軍を率いてバクトリアの王オクシュアルテスと戦い、ほとんどすべての諸都市を征服したが、要害堅固な首都バクトラだけは陥落できなかった。バクトラの包囲が長引く間に、ニノスは武将の1人オンネスの妻セミラミスに会った。オンネスは異国での長い戦争で妻が恋しくなり、セミラミスを呼び寄せたのだった。ニノスはこの女性の献策を受けてバクトルを陥落させた。セミラミスは到着するとバクトルのアクロポリスが堅固であるがゆえに手薄であるのを見て、兵の中から岩山を歩くのに長けた者たちを集め、これを率いてアクロポリスの一角を陥れた。これを見たバクトリア人は驚いて降伏した。セミラミスの才覚に感嘆し、その美貌に惚れこんだニノスは彼女を夫から奪って結婚した。2人の間にはニノスおよびセミラミスの王権を引き継いだと言われるニニュアースが生まれた。 クテシアスはまたニノスの死後に未亡人セミラミスが女王となって、夫を王宮内に埋葬し、それとは別に高さ9スタディオン、幅10スタディオンの大墳墓を築いたと述べている。この大墳墓はピューラモスとティスベーの物語にも登場する。セミラミスはさらに、アジアに残った最後の独立した君主であるインドのスタブロバテース王と戦争をしたが、多くの兵を失い、自身も負傷したため休戦した。その後、息子のニニュアースが謀反を企てたがセミラミスは処罰することなく、むしろ息子を支持して退位した。
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