ギリシアへの追放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/27 06:56 UTC 版)
「シュラクサイのディオン」の記事における「ギリシアへの追放」の解説
プラトンの第二次来訪(紀元前367年)を僭主をはじめとしたシュラクサイ人は熱烈に歓迎した。その一方で反ディオン派はディオンがプラトンの教えで僭主から支配権を手放させて自分の一族に支配権を渡すつもりだと中傷し、折しもシュラクサイと講和については自分が万事手抜かりなく行うから自分のいないところでは会見を行わないように勧めるという内容のディオンがカルタゴへ宛てて書いた手紙が僭主に知られた。さらに、プラトンが僭主制を廃して民主制を敷くようにディオニュシオス2世に説いたのにフィリストスがこれに反対した。これらのこととあわせてディオンを自身の地位への脅威と見なしたため、ディオニュシオス2世はディオンを国外へ追放しようとした。しかし、人々がディオンの追放に怒って騒動を起こそうとしたため、ディオニュシオス2世はディオンは旅行に行くのだと弁明し、彼の財産やその奴隷と一緒にペロポネソス半島へと彼を送るよう命じた。 ディオンはアテナイに滞在してアカデメイアの哲学者たちと交遊し、当時では名誉なことであるとされていた合唱隊の費用負担などをした。彼は他国も訪問して各地で歓待され、スパルタは彼に市民権を授けた。
※この「ギリシアへの追放」の解説は、「シュラクサイのディオン」の解説の一部です。
「ギリシアへの追放」を含む「シュラクサイのディオン」の記事については、「シュラクサイのディオン」の概要を参照ください。
- ギリシアへの追放のページへのリンク