ギリシア・ケルキラ島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 01:21 UTC 版)
19世紀末、ギリシアのケルキラ島にはおよそ5000人のユダヤ人が定住していた。彼らの共同体はイタリア出身者とギリシア本土出身者に分かれていたが、共に経済的に成功しており、キリスト教徒とも表面上は友好的な関係を築いていた。ところが1891年、ユダヤ人の家の中庭にあった袋の中から首を切断された少女の遺体が発見されたことにより、潜在的に秘められていた反ユダヤ感情が爆発した。殺された少女はユダヤ人の仕立て屋の娘であった。しかしキリスト教徒は、その遺体が仕立て屋に養子に出されていたキリスト教徒の娘のものだと主張して譲らなかった。このため、腹に据えかねた多くの住民がユダヤ人を裁くために大通りに集まる騒ぎに発展した。そこで、ラビの訴えもあって地元の司教が仲裁に当たったところ、かろうじてポグロムの発生を食い止めることができた。ただし、この事件によってユダヤ人の多くが同島での生活を諦めざるを得ず、富裕層を中心におよそ3000人がイタリアのトリエステやエジプトのアレクサンドリアといった他国のユダヤ人居住区に移住した。
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