ギリシアの頌歌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 14:16 UTC 版)
ギリシアのメロス(melos)つまり「歌曲」は、詩人がじきじきに声に出す部分と、楽団と熟練の踊り手たちによる合唱歌に分かれていた。どちらもかつて頌歌と呼ばれていたものの中にあったが、前者はアルカイオス、アナクレオン、サッポーによって抒情詩に近づいた。 一方、後者(合唱歌)は、その中で詩人が自分の立場を述べていたが、必ず合唱隊によって支えられ、あるいは解釈され、厳密な意味での頌歌になるに至った。この詩にストロペーからなる配置をもたらしたのはアルクマンだと考えられ、ストロペーは頌歌に欠かせないものとなった。この方法は、ステシコロス、イビュコス、シモーニデースを経て、古代の頌歌の2大詩人、ピンダロスとバッキュリデースに伝わった。 ピンダロスの抒情詩における形式と韻律の配置は英雄的頌歌(heroic ode)の典型を規定した。それらは意識してかなり手の込んだ韻律で作られ、それぞれの頌歌は個々の創意工夫の結果であって、形式の完全な一貫性を保っているわけではないことが、現在ではわかっている。しかし、エイブラハム・カウリーやニコラ・ボアロー=デプレオーといった過去の批評家たちは、頌歌の無規則性変化の中にあるまったくの無法さから、頌歌は近代の詩より、中世のトルバドゥールたちのカンソやシルヴェンテスにより似ていると考えた。ラテン語の頌歌自体はその複雑なハーモニーの秘密を失っているように見え、作者たちもピンダロスやバッキュリデースの頌歌を本気で模倣しようとはしなかった。 ギリシアの頌歌が徐々にその楽譜の記号を失ったということはありえる。笛で伴奏されていたのが、そのうちまったく伴奏なしに頌歌は朗読された。ローマの詩人たちによって作られた時、頌歌はレスボス島の抒情詩人たちの個人的な抒情詩形に回帰した。もっとも完璧な方法で、それを例証するのは、ホラティウスと カトゥルスである。ホラティウスはアルカイオスやアナクレオンを模倣・翻訳し、カトゥルスはサッポーから直接に霊感を受けた。
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