キリキアへの親征、ヌビアへの派兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 19:34 UTC 版)
「バイバルス」の記事における「キリキアへの親征、ヌビアへの派兵」の解説
バイバルスの攻撃に進退窮まったキリスト教勢力はイルハン国に助けを求め、1271年にモンゴルとルーム・セルジューク朝の連合軍がシリアに侵入する。モンゴル軍との戦闘の合間にアバカから休戦を提案する使者が派遣されるが、バイバルスはアバカ自身か彼の弟がエジプトに来るよう求め、和平は成立しなかった。1272年10月にモンゴル軍がシリアの辺境部への侵入を企てていることを知ったバイバルスは、ダマスカスから迎撃に向かう。ユーフラテス川を渡ったマムルーク軍の船舶と騎兵隊は国境地帯の要衝ビーラを攻めようとするモンゴル軍に勝利を収め、バイバルスはダマスカスに凱旋した。なおもバイバルスはモンゴル軍の動向に逐一注意し、ビーラでの勝利の後にアバカが進軍を行っている情報を受け取ると入念に軍備を行い、1273年9月にダマスカスに到着したが、モンゴル軍は姿を現さなかった。 バイバルスはキリキアへの遠征を考え、アルメニア王国がかつて和平にあたって課した条件を履行せず、マムルーク朝に敵対行為を取っていることを非難した。1275年2月にバイバルスはキリキア遠征に出発し、進軍中にハマーのアイユーブ家、アラブ遊牧民の軍と合流する。スィス(en)、アダナ、タルススなどのキリキアの都市はマムルーク軍に破壊され、市民は誘拐・殺害される。キリキア遠征でマムルーク軍は多くの戦利品と人質を得たが、戦利品の分配にあたってバイバルスは自分の分け前を取ろうとしなかった。 1275年から1276年にかけて、マムルーク朝はスーダンに勢力を広げる。1272年にヌビアのキリスト教国家マクリア(英語版)の王ダーウドがエジプトに侵入し、アスワン、アイザーブ(英語版)が襲撃を受けた。アイザーブの襲撃はマムルーク朝の交易・巡礼者の往来を妨げる恐れがあり、1273年にバイバルスは小規模の討伐隊を派遣したが、エジプト南部の国境地帯を平定するだけに留まった。ダーウドによってマクリアの王位を奪われた王侯シャクンダがマムルーク朝の支援を求めてカイロを訪れると、1275年冬にバイバルスは大規模な討伐隊をヌビアに派遣した。ダーウドはマムルーク軍によって追放され、ドンゴラで復位したシャクンダはマムルーク朝に臣従と貢納を誓った。1276年に討伐隊はカイロに帰国、ヌビア全土が初めてイスラームの影響下に置かれたが、バイバルスは誓約の履行とシャクンダの動向を怪しみ、再三密偵をヌビアに送り込んだ。
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