キリキアからローマへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 20:02 UTC 版)
ミトラス教に関する最古の記録はプルタルコスの「ポンペイウス伝」である。これによるとポンペイウスの時代(紀元前106年~前48年)、ミトラス教はキリキアの海賊たちが信仰した密儀宗教の中でも特に重要なものだった。海賊たちはミトリダテス6世を支援し、広範囲にわたって海賊行為を働いたため、前67年、ポンペイウスによって掃討された。 プルタルコスと同時代の詩人スタティウスの91年頃の作品である『テーバイス』(1・719-720)にはミトラス教について言及している箇所があるが、その内容は後世のミトラス神の聖牛供儀と同一のものである。この点からミトラス神の聖牛供儀の神話がこの時代にすでに成立していたことがわかる。しかし79年にヴェスヴィオス火山の噴火で滅びたポンペイからはミトラス教の遺跡が発見されていないことから、この時点ではミトラス教はまだイタリアに伝わっていなかったという説がある。いずれにせよ、150年頃、ローマ帝国内に姿を現したミトラス教はまたたく間に全土へ広がり、やがてローマ皇帝たちも個人的ではあったが関心を示すようになった。
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