キリキア総督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 04:44 UTC 版)
「アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前54年の執政官)」の記事における「キリキア総督」の解説
執政官任期満了後、プルケルはキリキア属州の総督となることを望んだ。アヘノバルブスはローマを離れることを好まなかたので、プルケルが属州総督となった。これに関してはポンペイウスの支援が重要な役割を果たしたようだ。ちょうどこの頃、プルケルは娘をポンペイウスの長男グナエウスに嫁がせており、元老院の中でも最も積極的なポンペイウスの支持者となっていた。プルケルとキケロを和解させたのがポンペイウスであることも知られている。 プルケルはプロコンスル(前執政官)権限で、総督職を約2年間(紀元前53年-紀元前51年)務めた。アパメアとラオディキアで鋳造されたコイン、およびアテナイとエレウシスに残る碑文から、プルケルは最初の年に軍事的勝利を得たことが分かる。キケロの手紙には、兵士たちがプルケルをインペラトル(勝利将軍)と讃えたことが記されている。しかしプルケル隷下の2個軍団は大損害を蒙り、またプルケルの指揮能力の低さと給料の支払いの遅れにより、兵士の士気は落ちていた。紀元前51年には3個コホルスが行方不明となっており、兵士達は反乱寸前であった。ローマに戻る前日になって、ようやくプルケルは給与を支払った。 プルケルがどのようにキリキアを支配したかは、後任の総督となったキケロの書簡から分かる。キケロはしばらくの間プルケルと書簡を交換していたし、また友人宛の書簡でもキリキアの状況について報告している。これらの書簡からは、プルケルが裕福になろうとして違法な税金を課し、キリキアを完全に破壊してしまったことがわかる。キケロは、プルケルの「強奪、放蕩、侮辱」について書いており、属州は「破滅した」、「奪われる可能性のあるすべてのものを奪われた」、さらにはプルケルの行動は「人ではなく、巨大な野生の獣」であると書いている。もちろん、これらの記述には誇張があるかもしれない。しかし、プルケルが義理の息子であるマルクス・ユニウス・ブルトゥスを支援したことは確かである。ブルトゥスはマルクス・スカプティウスとプブリウス・マティニウスと言う人物を介して、キリキアの年や指導者に法外な金利で金を貸し付け、その後同地の軍を使って借金を取り立てていた。スカプティウスは総督代理に任命され、キプロスのサラミスの住民から徴収するために、騎兵部隊を派遣した。サラミスの元老院は実際に包囲され、その結果、その議員のうち5人が飢えで死亡した。 彼は、正式な権利はなかったが、法廷を開いた。プルケルは後任のキケロと会うことなく、年末にイタリアに戻った。そこで凱旋式の実施を主張したが、プブリウス・コルネリウス・ドラベッラから「ローマ人の威厳を傷つけた」として告訴された。プルケルは凱旋式実施の望みを絶たれ、ローマに戻って自分を弁護しなければならなかった。ブルトゥスとクィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルスがプルケルの弁護を行った、ドラッベラはキケロとマルクス・ケリウス・ルフスに援助を求めたが断られ、結果プルケルは無罪となった。
※この「キリキア総督」の解説は、「アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前54年の執政官)」の解説の一部です。
「キリキア総督」を含む「アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前54年の執政官)」の記事については、「アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前54年の執政官)」の概要を参照ください。
- キリキア総督のページへのリンク