かん‐げん【乾舷】
かんげん〔クワンゲン〕【寛元】
かん‐げん〔クワン‐〕【寛厳】
かん‐げん〔クワン‐〕【換言】
かん‐げん【甘言】
かん‐げん〔クワン‐〕【管弦/管×絃】
読み方:かんげん
1 管楽器と弦楽器。横笛などの笛類と、琵琶(びわ)・琴などの弦(いと)類。また、楽器の総称。糸竹(いとたけ・しちく)。
かん‐げん【×諫言】
かん‐げん〔クワン‐〕【還元】
読み方:かんげん
[名](スル)
1 物事をもとの形・性質・状態などに戻すこと。「利益の一部を社会に—する」「濃縮果汁を—する」
2 酸素の化合物から酸素を奪うこと。または、ある物質が水素と化合すること。一般的には、原子または原子団に電子を与えること。→酸化
かん‐げん【閑言】
韓玄
カンゲン | ||
建安十三年(二〇八)秋、荊州牧劉表が没すると、その将黄忠は曹操から裨将軍に任じられ、長沙太守韓玄に属して攸県に駐屯した《黄忠伝》。十二月、劉備は周瑜とともに赤壁で曹操を破り、劉琦を荊州刺史に任ずるよう上表したうえ、軍勢を荊州南部に進めると、韓玄は武陵太守金旋・零陵太守劉度・桂陽太守趙範とともに降服した《先主伝》。長沙の督学署に韓玄の墓と祠があるという《黄忠伝集解》。 もし彼が曹操によって北方から派遣された人物で、なおかつ長沙で命を終えたのであれば、降服後すぐさま劉備に殺されたことになるだろう。建安十六年に荊州牧劉備は劉璋に招かれて蜀に入ったが、それ以前、従事廖立を長沙太守に任じている。おそらくこの間に処刑されたのである。あるいはもともと地元の有力者から抜擢された可能性もあり、張羨とも関係があったかも知れない。 【参照】金旋 / 黄忠 / 周瑜 / 曹操 / 趙範 / 劉琦 / 劉度 / 劉備 / 劉表 / 荊州 / 桂陽郡 / 赤壁 / 長沙郡 / 武陵郡 / 攸県 / 零陵郡 / 刺史 / 太守 / 裨将軍 / 牧 / 督学署 / 墓 / 祠 |
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