カルロス4世とマヌエル・デ・ゴドイの寵臣政治
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「スペイン・ブルボン朝」の記事における「カルロス4世とマヌエル・デ・ゴドイの寵臣政治」の解説
1788年にカルロス3世が死去し、息子カルロス4世が王位を継いだ(カルロス4世の弟フェルディナンドは父のスペイン王即位時にナポリおよびシチリアの王位を継いでいる)。カルロス4世は体格だけが立派な暗君とも言える人物であった。そのカルロス4世が即位早々にして直面したのが、1789年に起きたフランス革命である。筋金入りの反革命主義者であったカルロス4世は、国内の啓蒙主義者を取り締まるとともに、最初にフロリダブランカ伯爵を、次にアランダ伯爵を登用したが、いずれも期待にそぐわなかったので罷免した。代わって1792年に宰相に抜擢されたのが、25歳のマヌエル・デ・ゴドイであった。 ゴドイは元は一介の近衛兵に過ぎなかったが、カルロス4世の妃マリア・ルイサ・デ・パルマの愛人となり、急速に台頭した(ただし、近年ではこの説に異論が出ている)。ゴドイが宰相となった翌年に、フランス王ルイ16世が処刑された。この報に憤激したカルロス4世とゴドイは、イギリスの首相小ピットが提案した第一次対仏大同盟にスペインを参加させ、フランスに向けて軍を発した。反革命戦争は逆にフランスの侵入を招き、加えて国内では身分の上下を問わず革命思想が浸透することになった。結局、スペインの疲弊とフランスでの穏健派の台頭により、1795年にバーゼル講和条約が締結された。ゴドイは、この功績により「平和公」の称号を得た。そして1796年にサン・イルデフォンソ条約が結ばれて、フランスとスペインの軍事同盟が成立した。だが、これはスペインの植民地を狙っていたイギリスに侵入の好機を与え、ジブラルタルとトリニダード島を奪われた。窮地に陥ったゴドイは啓蒙改革派を登用することで打開を図ったが、国内の啓蒙改革派とフランスの圧力によって失脚させられ、新たにホベジャーノス(スペイン語版、英語版)が政権を担うことになった。 その頃、フランスでは1799年にナポレオン・ボナパルトが政権を掌握した(ブリュメールのクーデター)。ゴドイはナポレオンに取り入り、1800年に復帰する。権力の座に戻ったゴドイは徹底的に反動政治を行うなど、権威を振るったが、これはナポレオンの傀儡と化したことを意味していた。それを象徴するのが、ナポレオンが皇帝となった翌1805年に起きたトラファルガーの海戦である。この海戦にフランスと共に参加したスペインの主力艦隊は、ホレーショ・ネルソンによって完膚なきまでに叩きのめされた。 ゴドイの専横に対して、国内の自由主義者たちは苦々しく思い、アストゥリアス公フェルナンド王子の下に集結した。ゴドイをひたすら寵愛する父母に幻滅したフェルナンドもこれに同調し、両者は1807年にクーデターを企てる。それ自体は失敗に終わったが、人々からの支持は大きかった。そしてフェルナンドと自由主義者に再び好機が訪れた。ナポレオンは大陸封鎖令に違反したポルトガルを討つために、フランス軍をスペインへ送った。その際、カルロス4世とゴドイはナポレオンと共にポルトガルを分割することを約束したが、むしろフランスの行為を脅威と思い、密かに脱出しようとした。これを好機とした自由主義者は1808年にクーデターを起こし、ゴドイとカルロス4世を失脚させた。フェルナンドはフェルナンド7世として即位したが、カルロス4世も退位を撤回して両者はナポレオンに裁断を仰いだ。ナポレオンは両人を捕えて、自分の兄ジョゼフをスペイン王に就けた。こうしてブルボン朝は最初の中断を迎えた。
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