オリックス復帰
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2010年1月23日、オリックス・バファローズと1年8,000万円プラス出来高2,000万円で契約。背番号はカージナルス時代のチームメイト、ラリー・ウォーカーの付けていた番号にあやかった33(旧ブルーウェーブ時代に付けていた6は大村直之が着用していた。また球団から5も提示されていたが、固辞した模様)。 主に代打や左投手先発時にスタメンとして起用された。5月30日に行われた「がんばろう神戸デー」では1995年の優勝を経験した唯一のオリックスに所属している現役選手として、同日に復刻したブルーウェーブのユニフォームに袖を通した。9月7日のロッテ戦では代打逆転2点本塁打を打ち、9年ぶりに古巣のお立ち台に上がった。4月21日に左太もも痛で登録抹消、その後も不振や体調不調があり7月17日に再び抹消されるなど、シーズン通しての出場は53試合に留まったが、実直な練習態度や周囲へのアドバイスなど、精神的支柱としての面が評価され、翌年も契約することが決まった。 2011年は2月の春季キャンプで右肩を痛め、開幕に出遅れるも、5月10日に一軍に昇格。5月18日の阪神戦では3番・右翼手として出場し、岩田稔から先制適時打を打ち2度目のお立ち台に上がった。その後も低迷したチーム打率や後藤光尊が二軍落ちした状況の中で3番としてチームを牽引した。後藤の復帰後は主に2番打者として起用され、交流戦では弟分である坂口智隆に次いで全体2位の打率.363を記録する。しかしその後は不調に陥り、8月29日に登録抹消される。その後は痛めた右肩の影響もあり一軍に昇格することは無く、戦力外通告を受けて10月13日に退団となった。翌14日に右肩を手術した。12月2日、自由契約公示された。 2012年は現役続行を目指しながらリハビリテーションに専念していたが新規契約期限の7月31日までにどの球団からもオファーがなかったため同日に自身の公式サイトで現役引退を発表した。妻は引退試合が無く終わってしまったことが心残りだったという。 なお、上記の通りメジャー時代もあったが日本での所属球団はオリックスのみであり、オリックス一筋でブルーウェーブのリーグ優勝・日本一を経験した最後の1人だった。
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オリックス復帰
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「ホセ・フェルナンデス (1974年生の内野手)」の記事における「オリックス復帰」の解説
2013年はメキシカンリーグに復帰し、モンクローバ・スティーラーズでプレーしていた。シーズン途中の7月21日にオリックスが獲得を発表した。背番号は「44」に決まった。オリックスへは4年ぶりの復帰となる。8月9日の対西武戦でオリックス復帰後初本塁打を記録したが、以降は打撃不振に陥り、結局この本塁打1本のみで打率が2割に満たずにシーズンを終え、来日以来最低であった前年の成績をさらに下回った。10月25日に自由契約公示された。その後は現役を引退。
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オリックス復帰
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オリックス・ブルーウェーブに復帰。マイナーリーグ時代は「野球だけじゃなく生活面でも苦労し、その苦労により白髪も増えた」と言い、「日本よりメジャーにいる時の方が3倍の早さで年を取る」とも語っていた。 オリックス復帰後2年間はリリーフでの登板だったが前回在籍時のリリーフでの安定感を取り戻せず2001年オフにオリックスを自由契約となり、数球団の入団テストを受けるも不合格。
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オリックス復帰
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「フェルナンド・セギノール」の記事における「オリックス復帰」の解説
2010年6月3日にオリックス・バファローズと契約。2002年以来、8シーズンぶりに古巣への復帰(ただし球団は合併している)となった。交流戦後の6月18日に一軍登録され、絶好調だった北川博敏に代わり試合に出ていたが、わずか6試合の出場で、打率.130、0本塁打1打点と調整不足を露呈し、6月26日に登録抹消。7月16日に再昇格したが、またも結果は残せず、7月29日に再度登録抹消。その後、一軍に再登録されることはなく、11月11日に自由契約となった。結局オリックスでは前回在籍の2002年を下回る結果に終わった。
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