オリックスへの復帰後
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2012年12月25日、古巣であるオリックス・バファローズへ6年ぶりに復帰することが発表された。この復帰を機に、阪神時代に着用していた背番号「5」を、桐蔭学園高校および阪神でのチームメイトであった浅井良に譲っている。また、オリックスの応援団は、平野の復帰に合わせて新しい応援歌を制作。試合で平野が打席に入るたびに、阪神への移籍前に使用していた応援歌と交互で演奏している。 2013年は、開幕前に右ふくらはぎの肉離れで離脱し出遅れてしまう。5月2日に復帰したものの5月18日の広島戦で今度は左ふくらはぎ痛で途中交代し、翌日登録抹消され、その後結局3か月ほど復帰に時間を費やした。8月に復帰してからは主に1番・レフト、またはセカンドで出場し、打率は3割を超えるなど好成績を残したが、結局故障による長期離脱の影響で昨シーズンの出場数の半分にも満たない僅か56試合の出場に終わった。 2014年には、開幕からスタメンで出場。序盤は2番打者を任されていたが、6月以降はもっぱら1番打者で起用。打撃・守備ともシーズンを通じて安定した活躍を見せるとともに、チームを6年ぶりのAクラス(シーズン2位)に導いた。8月20日のロッテ戦ではNPB史上16人目の一軍通算250犠打、9月14日の日本ハム戦では自身2年ぶり・オリックス復帰後初となる本塁打を記録している。その一方で、5月26日のDeNA戦で死球を受けたことから、前年に痛めた右ふくらはぎの状態が悪化。オールスターゲーム明けの7月24日から8月5日まで、戦線離脱を余儀なくされた。さらに、チームがリーグ優勝争いの渦中にあった9月24日の西武戦で左手に死球を受けて、再び戦線を離脱。日本ハム(シーズン3位)とのクライマックスシリーズ・ファーストステージで復帰したものの、第2戦(10月12日)の走塁中に右太腿裏の張りを訴えて交代するなど、故障に見舞われることが相次いだ。 2015年は、ふくらはぎ痛を抱えながらも、開幕から主に二塁手としてスタメン出場を続けていた。しかし、左太腿裏や右のかかとを痛めたため、5月21日に出場選手登録を抹消。前々年から続くふくらはぎ痛の影響や、ルーキー二塁手・西野真弘の台頭なども相まって、抹消後は二軍でリハビリに専念していた。9月10日のウエスタン・リーグ中日戦で実戦復帰を果たすも、万全の状態に戻らない両足や身体に限界を感じたことから、この年限りで現役を引退することを決意。9月25日には、京セラドーム大阪内での記者会見で引退を発表した。
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