エリザベス女王杯を制覇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:00 UTC 版)
「ホクトベガ」の記事における「エリザベス女王杯を制覇」の解説
明けて1993年、加藤和宏の鞍上で1月5日・中山の4歳新馬戦に出走すると、2番人気ながらダート1200mを1分12秒5という準オープンクラス馬を凌ぐ時計を叩き出し、2着に9馬身差をつけて逃げ切り勝ちを収める。次戦となった同16日の朱竹賞(500万下)では2着に敗れるが、舞台を東京に移した3戦目のカトレア賞(500万下)で2勝目を挙げる。新馬戦から3戦目まではいずれもダート戦であり、ホクトベガが初めて芝を走ったのは、4戦目で初の重賞挑戦となったフラワーカップである。初めての芝でのレースということで2番人気であったが、直線で内から楽に抜け出して3勝目を飾る。桜花賞トライアルのフラワーカップを勝ったことでホクトベガは牝馬クラシック候補の1頭に数えられ、同じ星の名前を頂く栗東所属のベガとの対戦は『東西ベガ対決』とも呼ばれたが、桜花賞は長距離輸送で落ち込んだ馬体を戻せず、さらに阪神では不利となる大外枠であったこともあってベガの5着、優駿牝馬は道中ベガをマークし、早めに動いたものの直線で伸びきれずにまたしてもベガの6着にそれぞれ敗れた。優駿牝馬終了後に放牧に出され、帰厩後にトライアルのクイーンステークスとローズステークスを戦うが、それぞれユキノビジンの2着、スターバレリーナの3着に敗れた。ローズステークスの後は美浦に戻らずに栗東で調整を続けて調子は上向いていたが、この頃には既に勝ち切るだけの決め手に欠けるという評価が定着しており、牝馬クラシック最終戦となるエリザベス女王杯では1番人気のスターバレリーナ、牝馬三冠がかかる2番人気のベガに対し、ホクトベガは9番人気と評価を落としていた。 レース本番、ケイウーマンがスタートから飛び出して大逃げを打ち、1200m通過タイムが1分10秒2というハイペースで進む。1枠1番という最内からスタートしたホクトベガは、これまでの先行策ではなく道中は中団で折り合いを付け、4コーナーで最内から先頭へ進出。先行するベガとノースフライトを内から交わして先頭に立つと、追いすがるノースフライトを上り3ハロン35秒3の時計でねじ伏せ、2分24秒9というレースレコードをマークしてゴール。牝馬クラシック最後の一冠を制するとともにGI初勝利を飾った。レース後、鞍上の加藤は「有力馬の後ろで折り合いをつけ、内の経済コースを通るように心掛けた。叩き合いになって相手のノースフライトの手応えが悪かったので勝てると思った。気楽に乗れたのが良かった」と語っている。このホクトベガ陣営の作戦は、かつて中野が管理していたグリーングラスが同じ京都で行われた菊花賞を優勝した際の作戦をほぼそのまま踏襲したものであり、これが見事にはまった形となった。ベガはノースフライトの後塵を拝する3着に敗れ、実況を担当した馬場鉄志(当時・関西テレビアナウンサー)は「ベガはベガでもホクトベガです!」「東の一等星ホクトベガ!勝ったのは北斗のベガです!」というフレーズを残した。騎手の加藤と調教師の中野は当レース初勝利、GIは加藤がシリウスシンボリで勝った1985年の東京優駿以来、中野がクシロキングで勝った1986年の天皇賞(春)以来の勝利となった。酒井牧場にとっても当レースは初勝利であり、かつて牝馬三冠を目指したマックスビューティが果たせなかった勝利だったが、牧場主の酒井はまさかホクトベガが勝つとは思っていなかったため、この時京都に応援に行っていなかった。このことについて酒井は後年、「せっかくの晴れ舞台なのに、彼女には申し訳ないことをした。馬を見る目がないことを思い知らされた。あの馬の強さを見抜くことができなかったなんて、プロのホースマン失格です」と語っている。 晴れてGI馬の仲間入りを果たしたホクトベガは、1993年12月18日のターコイズステークスに出走するが、エリザベス女王杯の優勝をフロックと見る向きは多く、GIホースにもかかわらず負担斤量でユキノビジンに0.5kgの差(ホクトベガ56kg、ユキノビジン56.5kg)を付けられ、さらに事前の人気もユキノビジンに後れを取る2番人気、レースでもユキノビジンの3着に終わった。
※この「エリザベス女王杯を制覇」の解説は、「ホクトベガ」の解説の一部です。
「エリザベス女王杯を制覇」を含む「ホクトベガ」の記事については、「ホクトベガ」の概要を参照ください。
- エリザベス女王杯を制覇のページへのリンク