エドセル・フォードのための試作車(1939年)
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「リンカーン・コンチネンタル」の記事における「エドセル・フォードのための試作車(1939年)」の解説
リンカーン・コンチネンタルは、フォード・モーター社長のエドセル・フォードのための私用車として誕生した。1938年、フォードは1939年3月の休暇に備え、チーフスタイリストのE.T. (ボブ) グレゴリー(英語版)にワンオフのデザインを依頼した。グレゴリーは流線型のデザインだったリンカーン・ゼファーを出発点に、ボディを一新したコンバーチブルのデザインをスケッチした。 初代コンチネンタルクーペの開発が始まった当時、リンカーンはそれまでのリンカーン・Kシリーズ(英語版)のクーペ、セダン、リムジンの生産を中止し、非常に限定的なリムジンであるリンカーン・カスタム(英語版)とより小型のリンカーン・ゼファーのクーペとセダンを生産しており、1939年には新たにマーキュリー・エイト(英語版)も登場していた。フォードは1929年から1932年に販売されたリンカーン・ヴィクトリアのクーペとコンバーチブルの人気を復活させたいと考えていたが、コンチネンタルはヨーロッパのスタイリングの影響を反映させた、より現代的なアプローチをとっていた。 エドセル・フォードの試作車は、リンカーン・ゼファーのコンバーチブルに似たデザインで、従来のフロントガラスの形状をしているにもかかわらず、標準的なリンカーンよりも7インチ近く低くなっていた。車高の大幅な低下に伴いランボードは完全に消えた。ゼファーとは対照的に(リンカーン・Kシリーズからの大きな変化として)ボンネットはフェンダーとほぼ水平になっていた。車のスタイリングを重視するために、車のクロームトリム(英語版)は主にフロントグリルに限定され、ドアハンドルの代わりにプッシュボタンでドアを開く様になっていた。リンカーン・ゼファーと同様に267立方インチのV12エンジンを搭載し、前後横方向のリーフスプリングと油圧式ドラムブレーキを装備していた。 このデザインは多くのアメリカの自動車デザインで長く用いられる2つの要素を導入する事になる。 この試作車のボンネットラインがV12エンジンの上に低くなり、客室が後方に移動した事で、当時のストリームライン・モダンのトレンドを忠実になぞるのではなく、より古い時代の「ロングフッド、ショートデッキ」のボディ構成との共通点を持つ事になった。トランクスペースが狭くなった結果、スペアタイヤはトランクの後ろに取り付けられた。アメリカ車では姿を消したが、ヨーロッパ車は外付けのカバー付きスペアタイヤ(英語版)が引き続き主流だった。 グレゴリーがデザインした試作車は、エドセル・フォードがフロリダで使う期限までに予定通り生産された。裕福な友人たちの関心は高く、エドセルは1000台売れるとミシガン州に電報を送った。リンカーンをベースとした試作車はヨーロッパに感化されたデザインにちなみ「コンチネンタル」と名付けられた。 すぐにリンカーン・コンチネンタルの生産が開始され、大多数の「カブリオレ」コンバーチブルと少数のクーペが生産された。2ダースの1939年型と400台の1940年型のボディパネルは手打ちで製造された。機械プレス用の金型が作られたのは1941年になってからである。少数の限定生産にとどまった1939年型は一般的に「1940年コンチネンタル」と呼ばれている。
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