エドセル、困難であった命名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 07:28 UTC 版)
「エドセル」の記事における「エドセル、困難であった命名」の解説
エドセルという車名は、その人気の欠如の更なる理由としてしばしば言及される。車両の命名案としてエドセル・フォードの名を用いる事は、計画の初期から存在していた。しかし、フォード家はその名称の使用に強く反対した。特にヘンリー・フォード2世は良き父の名を何千ものホイールキャップに付けて回転させたくはないと宣言した。フォード・モーターは仕方なく社内調査を行い社員へのアンケートを行った他、社員を映画館の外に立たせて来場者に聞き取りを行い、そのアイデアを幾つかの案として提示したが、それでも結論には達しなかった。 フォード・モーターはまた、広告代理店のフット、コーン&ベルディング(英語版)に名称の考案を依頼した。FCBは報告書の中で6,000以上の名称案を提示したが、フォード・モーターのアーネスト・ブリーチは命名に適した名は6,000余りの候補の中には一つもなかったとコメントした。これらの名称案の中で初期に最終選考まで残った物の中にはサイティーション、コルセア、ペーサー、レンジャーが含まれており、最終的にエドセルの車両のシリーズ名に転用された。 名称案の選定は迷走を極め、マーケティング・リサーチ部門のマネージャーであったデビッド・ウォレス(英語版)は、同僚のボブ・ヤングと共に非公式に自由思想詩人のマリアン・ムーア(英語版)を招待し、名称案を募るに至った。ムーアの発案は自由奔放で創造的なものではあったが、「ユートピアン・タートルトップ」「パストログラム」「ターコティンガ」「レジリエント・バレット」「アンダンテ・コン・モト」「マングース・シビック」など、いずれも突拍子もないものばかりであり、車名にはとても使えるようなレベルではなかった。 ヘンリー・フォード2世が不在の理事会の席上、議長を務めたアーネスト・ブリーチはこれらのある種の当て馬的な名称案までも提示した上で、最終的に創業者のヘンリー・フォードとその息子で元社長のエドセル・フォードへの敬意を表して、「エドセル」の名称を用いる事を決定した。ウォレスはブリーチの裁定を受け、彼女の提案を含め、6,000余りの名称案の中から「エドセル」の名称が選ばれた事をムーアに対して謝辞と共に伝えた。なお、ウォレスは1975年にオートモビル・クォータリー(英語版)誌にてエドセル計画の顛末を次のように振り返っており、エドセルの成功を微塵も疑わなかった当時の経営陣が想像を超えるエドセルの惨敗を前にどれ程動揺したか、その一端を窺い知る事が出来る。 何かが間違っていました。私は過去の歴史上このような展開を目にした事がありません。世論調査、動機付け研究、科学に基づく計画の全ての部分で、何かが上手くいかなかった・・・。
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