エチオピア=イスラエル関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 10:18 UTC 版)
「エチオピアにおけるユダヤ人の歴史」の記事における「エチオピア=イスラエル関係」の解説
エチオピアはテルアビブに大使館を置いており、大使はさらにバチカン、ギリシャ、キプロスも管轄下に置いている。イスラエルはアディスアベバに大使館を置いており、大使はさらにルワンダ、ブルンジも管轄下に置いている。エリトリア独立戦争以来、イスラエルはエチオピア軍にとって最も重要な装備の供給者であった。 2012年、エチオピア出身のイスラエル人、ベライネシュ・ゼヴァディアが駐エチオピアイスラエル大使に就任した。 エチオピア帝国時代、イスラエルの将校はエチオピア軍第5師団に所属する、空挺部隊と対反乱部隊の訓練を行った。 1960年12月、ハイレ・セラシエ帝のブラジル訪問の際に発生したクーデターは、イスラエルの介入により未遂に終わった。 1960年代前半、イスラエルはエリトリア解放戦線に対するエチオピア軍の作戦を支援した。 エチオピア政府はエリトリアの反乱をアラブ人勢力のアフリカ進出とみなし、このことを根拠にイスラエルの支援を引き出した。 イスラエルは対反乱部隊の訓練を行ったほか、エリトリア総督はイスラエルの武官を顧問に迎えていた。また、イスラエル人将校は軍学校で部隊の訓練を行っていたほか、エチオピア軍の特殊部隊の訓練も行った。 1966年までに、エチオピアにはおよそ100人のイスラエル人顧問が存在していた。 エチオピアの首相アキリウ・ハブテ・ウォルドは、OAUのサミットへの参加後、イスラエルとの断交を目指した。内閣での議論では断交が決定されたものの、皇帝の反対にあい、実行されなかった。その後1973年にエチオピアはイスラエルと正式に断行したが、その後も軍事政権はイスラエルからの支援を受けており、さらにイスラエルからアメリカ製の弾薬、航空機などの供給を受けた。 また、アディスアベバには少数ながら断交後もイスラエル人顧問が駐在していた。しかし1978年、当時のイスラエルの外務大臣モーシェ・ダヤンがエチオピアをイスラエルが支援していると認めたため、メンギスツ政権はリビア、南イエメンなどとの関係を維持すべく、全てのイスラエル人を国外追放した。しかしその後もイスラエルによる支援は続いた。1983年には無線部隊の訓練を行い、1984年には大統領親衛隊の訓練を、さらにエチオピアの警察でイスラエル人が任務に就いたこともある。一部の専門家は、こうした支援はベタ・イスラエルの救出作戦である、モーゼ作戦を黙認させる対価であったと考えている。モーゼ作戦により、およそ10000人のベタ・イスラエルがイスラエルに移住した。1985年、ある報告によれば、イスラエルはレバノンで鹵獲された総額2000万米ドル分のソ連製弾薬をエチオピアに売却した。エリトリア人民解放戦線(EPLF)によれば、メンギスツ政権は1987年に8300万米ドル分の支援をイスラエルから得ていたとされる。さらにEPLFは、38人のエチオピア空軍のパイロットがイスラエルで訓練を受けたとも主張している。そしてその対価として、軍事政権はベタ・イスラエルのイスラエル移住を許可した。移住ペースは最大で月500人に達したが、その後3分の1程度まで減少した。その後、[いつ?]イスラエルと軍事政権との間で新たに結ばれた協定に基づき、イスラエルはエチオピアに対し農業、経済、医療などの支援を行った。また、メンギスツ政権崩壊直前の1991年5月には、イスラエルは3500万米ドルの支援の代価として、15000人のベタ・イスラエルのイスラエルへの移住を行った。
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