ウェールズとオファの防塁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 05:39 UTC 版)
「オファ (マーシア王)」の記事における「ウェールズとオファの防塁」の解説
詳細は「:en:Offa's Dyke」を参照 オファはウェールズの諸王国とたびたび紛争を起こした。10世紀の年代記『カンブリア年代記』には760年ヘレフォードでウェールズとマーシアの戦いがあったことが記載されており、778年と784年の項には「オファによってウェールズが荒廃させられた」とする趣旨の記述もある。 オファの防塁は、オファ時代に造られた建造物として広く知られる遺構で、イングランドとウェールズの境界にほぼ沿って築かれた長大な土塁である。修道士アッサーはこの防塁について『アルフレッド大王伝』にこう記した。 「とある勇猛な国王(略)その名はオッファ。また、彼はウェイルズとマーシャの間を海から海へ及ぶ大規模な土防壁を造らせた。」 —(小田卓爾訳『アルフレッド大王伝』中公文庫)。 土塁の年代が考古学的方法で求められた訳ではないが、ほとんどの歴史家はアッサーのこの記述を疑いなく許容している。ウェールズ語でも英語でも古くからオファの防塁(英語:Offa's Dyke、ウェールズ語: Clawdd Offa)と呼ばれていることもこのことを後押しする。アッサーの書には「海から海へ及ぶ」との記述があるが、実際はウェールズ・イングランド境界の3分の2程度で、北端は海から内陸に5マイル(8 km)ほどのスランバニズ村(Llanfynydd)、南端はブリストル海峡から50マイル(80 km)ほど離れたヘレフォードシャー、キングトン近くのラショックヒル(Rushock Hill)で、全長は約64マイル(103km)である。今日のイングランド・ウェールズの国境はヘンリー8世のウェールズ連合法(合同法、1536年。Laws in Wales Acts)によって定められたものだが一部を除いてオファの防塁と重なっており、ヘンリー8世も国境設定にあたりオファの防塁を参考とした可能性は高い。ウェールズとの国境沿いには他にも土塁があり、その中でもワットの防塁 (en:Wat's Dyke) は最大級のものだが、各々築かれた年代が不明確で比較し得ないため、オファの防塁がワットの防塁を真似たものなのか、それともワットの防塁がオファの防塁から着想を得て築かれたものなのかを特定することはできない。 防塁は西側に堀、東側に堤を配した構造であり、西のウェールズからの攻撃を防ぐ防壁として、またウェールズ側の動きを一望できる場所として建設されたとみられる。このことは防塁を建設したマーシア側が最適な場所を自由に選んでいたことを示唆するものである。防塁の西側には、8世紀までイングランド側であったことを示唆する名前の村落があるため、マーシアは防塁の場所を選ぶ際に、意図的に一部の領土をブリトン人(ウェールズ)に明け渡した可能性もある。あるいは、これらの村落は防塁建設前にウェールズ人によって奪われていたかもしれず、この場合防塁建設の主眼は防衛にあったとみることもできる。防塁の建設には膨大な費用と労働力が必要となるため、これを作らせた王(オファであろうと誰であろうと)はかなりの財力を持っていたことが伺える。ワットの防塁や現在のドイツにあるダーネヴィアケ(英語版)といった同時代の防塁、そして数千年前のストーンヘンジなど、大規模な建設プロジェクトは他にも存在するが、オファの防塁はこれらと比較した上でも、文字使用以前のブリテン島住民による最大かつ最後の大規模建築物であると考えることができる。
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