イラン・コントラ事件
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イラン・コントラ事件(イラン・コントラじけん、Iran-Contra Affair)は、アメリカ合衆国のロナルド・レーガン政権が、レバノンでシーア派テロリスト集団に捕らえられているアメリカ人の解放を目的としてイランと裏取引をした上に、アメリカ国家安全保障会議から同国へ武器を売却し、さらにその代金をニカラグアの反共右派ゲリラ「コントラ」の援助に流用していた事件。1986年に発覚するや、アメリカ国内のみならず世界を巻き込む政治的スキャンダルに発展した。イランゲート(Irangate)といわれた。
- 1 イラン・コントラ事件とは
- 2 イラン・コントラ事件の概要
- 3 脚注
イラン・コントラ事件
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「キャスパー・ワインバーガー」の記事における「イラン・コントラ事件」の解説
1986年11月にレバノンの新聞『アルシラア』誌によって、アメリカが密かに武器をイランに売却したと報道された。イラン・コントラ事件(イランゲート事件)である。ワインバーガーはイランへ対戦戦車ミサイル売却に関与していた。その後武器の売却に原則として反対したと弁明するが、事件の真相を求める圧力と国防予算の成立を前に、1987年11月23日に夫人の健康状態を理由に国防長官を辞任した。しかし辞任後のワインバーガーは特別検察官に指名されたローレンス・E・ウォルシュによって起訴された。ワインバーガーはイラン・コントラ事件において、いくつかの重罪訴因が存在したとして特別検察官によって形式起訴を受けたが、1992年12月24日にジョージ・H・W・ブッシュ大統領によって恩赦を受けた。
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イラン・コントラ事件
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「ロナルド・レーガン」の記事における「イラン・コントラ事件」の解説
1986年にはイラン・コントラ事件として知られるイランとニカラグアのサンディニスタ政権に対する秘密軍事支援のスキャンダル及び調査があった。 1985年8月、アメリカ軍の兵士らがレバノン(内戦中)での活動中、イスラム教シーア派系過激派であるヒズボラに拘束され、人質となってしまった。人質を救出する為にレーガン政権は、ヒズボラの後ろ盾であるイランと非公式ルートで接触し、イラン・イラク戦争でイラクと戦っていたものの劣勢であったイランに対し、極秘裏に武器を輸出する事を約束した。しかし当時のアメリカは、イラン革命後の1979年に発生したイランアメリカ大使館人質事件によりイランとの国交を断絶しており、当然のことながらイランに対する武器輸出を公式に禁じていた上に、政治家・官僚・軍人による同国政府との公式な交渉も禁じられていた。 レーガン直々の承認を受けて極秘裏にイランに対して武器を輸出したばかりか、国家安全保障担当補佐官のジョン・ポインデクスターと、国家安全保障会議軍政部次長でアメリカ海兵隊のオリバー・ノース中佐らが、イランに武器を売却したことで得た収益を、左傾化が進むニカラグアで反政府戦争(コントラ戦争)を行う反共ゲリラ「コントラ」に与えていた。 しかしイランへの武器輸出と、反共ゲリラへの資金流用というそれぞれの行為は、本来なら必要である議会の了解を取っていなかったばかりか、当時民主党が多数を占めた議会の議決に完全に反していた。またこの時、アメリカのイランとコントラの双方の交渉窓口は、レーガン政権において副大統領のブッシュであったとされ、このブッシュの関与が、後の民主党政権下の連邦議会における公聴会で取りあげられた。 しかし最終的に、レーガンには自らのスタッフに対する管理が不十分だった点にのみ罪があるとされ、この事件は終結を迎えた。このスキャンダルはレーガンの在任中最大級のものだったが、その政治生命へのダメージは少ないものに留まった。下院議員のパトリシア・シュローダーは、このスキャンダルでレーガンの評判が傷つかなかったことを揶揄し、レーガンのことを傷のつきにくい鍋に例えて「テフロン大統領」と呼んだ。
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イラン・コントラ事件
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「オリバー・ノース」の記事における「イラン・コントラ事件」の解説
ノースは連邦議会においてイラン・コントラ事件への関与によって著名になった。同事件において、彼はイランへ武器ブローカーを通しての武器密輸計画の責任者を務め、そこで得られた資金でニカラグアの反政府組織コントラへ資金援助の道筋を付けたのである。彼はコントラを援助する目的に用いられた秘密のネットワークの設置に関与していた。 1986年11月、ノース中佐はレーガン大統領直属となり、1987年、イラン・コントラ事件を調査するために設定された両院協議会のテレビ公聴会に先立って証言のために召喚された。聴聞の間、彼は自分が議会に対し虚偽の証言をしたことを認め、このことによって後に告訴されることになった。彼は、「自分が『自由の戦士』と見なしたコントラを援助する目的が正しいものであることを信じている」と述べることで自身の行為を弁護した。そして非合法のイラン・コントラ計画を「素晴らしいアイデア」であると自分は考えていると述べた。1988年ノースは「国家安全保障会議(NSC)」に所属していたときの活動に関係して法廷に立った。彼は16の重罪で告訴され、1986年5月4日の判決で、収賄、聴聞議会の妨害の支援および幇助、(彼の命令で秘書のファウン・ホールが行った)書類の破棄の3つの罪状で有罪を宣告された。そして1989年11月5日、ゲートハルト・A・ゲゼル連邦地方裁判所判事によって執行猶予3年、保護観察2年、罰金15万ドル、1,200時間の社会奉仕活動の刑を宣告された。 しかしながら1990年7月20日、3人の判事からなる上訴審査委員会は、上告審において彼への有罪判決を覆した。ノースが以前行った公開の場での証言によって、公正な裁判を受ける彼の権利が侵害された可能性があるとの理由だった。連邦最高裁はこの訴訟の再審理を却下した。ゲゼル判事は1991年9月16日、独立検察官の動議による免責問題する公聴会の審議を経て罰金の判決を棄却した。本来、彼には議会証言に対して限定的免責を与えられており、この宣誓証言は審議における証言に影響を与えたと見なされたので有罪判決は覆されたのであった。
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イラン・コントラ事件
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「レーガン・ドクトリン」の記事における「イラン・コントラ事件」の解説
ニカラグアのサンディニスタに反対するコントラに対するアメリカ合衆国の資金援助は、秘密の資金源から調達された。アメリカ合衆国議会はコントラの効果に関する十分な資金と認めず、ボランド修正(英語版)は更なる資金援助を禁止した。1986年、イラン・コントラ事件として知られることになる話題でレーガン政権は武器販売が捕虜の解放を保証し諜報機関にニカラグアのコントラに資金援助することを認めることを望んで武器禁輸の問題であるイランに武器を違法に販売したことを容易にした。
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