アメリカ・ヨーロッパ諸国
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江沢民は天安門事件で孤立した中華人民共和国の外交の改善に貢献したとして、「中国を変えた男」と肯定的に評価されている。とくに、大国間の協調を重視してアメリカ合衆国・ロシア連邦との関係においては緊密な関係を築いた。1997年10月にアメリカを訪問した際、江沢民とアメリカ合衆国大統領ビル・クリントンは、両国関係を初めて「戦略的建設的パートナー」と表現して米中協調の枠組み作りを本格化させ、当時のクリントン政権には「チャイナゲート(英語版)」と呼ばれる中国政府から選挙資金を得た疑惑からの批判もあった。しかし、1999年のコソボ紛争では中国を訪問して江沢民と友好関係にあったユーゴスラビアのスロボダン・ミロシェヴィッチ政権をNATOは攻撃して中国大使館への誤爆も起きたために米中関係は緊張関係になり、2000年に起きたブルドーザー革命の際はミロシェヴィッチの家族はその財産を中国に持ち込んで亡命も試みていた。コソボ紛争でNATOに共に反発して、第二次チェチェン紛争でも欧米と対立を深めていたロシアのボリス・エリツィン大統領に接近し、その後任のウラジミール・プーチン大統領とは中露善隣友好協力条約を締結して中露関係を強化し、ロシアと同じ隣国でソビエト連邦の崩壊で独立したばかりの中央アジアも引き入れた上海ファイブを2001年6月15日に上海協力機構に改組してNATOに対抗した。 クリントンの後任に中国を「戦略的競争相手」と位置付けるジョージ・W・ブッシュが大統領に就任した直後に南シナ海で海南島事件が起きていたこともあって、中国とアメリカの亀裂は決定的とする見方もあったが、同年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生すると、江はこの事件を契機にアメリカとの協調関係の再構築に乗り出した。中国は真っ先にアメリカに対して哀悼の意を表するとともにテロリズムに共同で立ち向かうことを宣言し、翌月にAPEC(2001年APEC上海会議(英語版))を上海で主催した江は911テロ後の初外遊で中国を訪問したブッシュが唱える「テロとの戦い」を支持する各国との首脳共同声明をまとめ、アメリカ軍によるタリバーン打倒後のアフガニスタン復興に1億5000万ドルもの資金を援助し、対テロ戦争を支える国際連合決議にも賛成して有志連合を支持した。また、ブッシュの父で米中連絡事務所所長を務めた元大統領のジョージ・H・W・ブッシュと交流し、ブッシュの叔父で米中商工会議所議長を務めたプレスコット・ブッシュ・ジュニアと江沢民は長年の友人であるなどブッシュ家とは密接な関係を持ち、息子の江綿恒はブッシュの弟のニール・ブッシュと中国で会社を共同経営していた。これらの中国の動向を受けて、ブッシュは中国を「責任ある利害共有者」とし、中華人民共和国の世界貿易機関加盟を受け入れ、台湾独立についても支持しないことを明確にするなど、中国とアメリカの接近が深まった。ブッシュ政権ではイレーン・チャオ労働長官の父親は江と同級生でもあり、財務長官を務めたヘンリー・ポールソンと江は親交があった。一方で、悪の枢軸発言やイラク武装解除問題でイラクへの軍事攻撃に江は反対するなど、一極化するアメリカの単独行動主義は牽制していた。
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