アメリカ・ローンスカウト
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「ウィリアム・ディクソン・ボイス」の記事における「アメリカ・ローンスカウト」の解説
ボイスはアメリカ・ボーイスカウトの執行役員であるジェイムズ・E・ウェストと、町から遠いためにボーイスカウト隊に加われない少年達のためのプログラムのことで衝突した。ボイスはアメリカ・ボーイスカウトのための雑誌をシカゴで出版するという条件で提案した。アメリカ・ボーイスカウト全国執行委員会がその提案を却下し、その直ぐ後でボイスはアメリカ・ボーイスカウトの管理活動に参加することを止めた。ただし、活動プログラムの断固たる支持者のままではあった。その結果、またボイス自身が子供時代にそうであったように限られた機会しか無い少年達のために尽くしたいという願望によって、ボイスは新しいスカウトに関わる事業であるアメリカ・ローンスカウトを1915年1月9日に設立した。アメリカ・ローンスカウトはアメリカ・インディアンにその主題を頼っていたので、はっきりとインディアン的な色彩があった。ローンスカウトは「トライブ」と呼ばれる小さな集団を形成することができ、トライブの宝は「ワンパム・ベアラー」(貝殻玉を持つ人)と呼ばれ、少年達には環境を崇めるよう教えた。ボイスのローンスカウトに対する寄付額は毎年10万ドルにもなった。アメリカ・ボーイスカウトとアメリカ・ローンスカウトの両方でボイスは管理者だったが、ボーイスカウトと直接接触することはほとんど無かった。第一次世界大戦の報道から戻ったときに、すぐさま雑誌「ローンスカウト」を発刊し、シカゴの著名なボーイスカウト隊長フランク・アラン・モーガンを雇って、アメリカ・ローンスカウトを指導させることで、その拡張を始めた。1915年11月までにアメリカ・ローンスカウトの会員は3万人以上になった。ウォーレンはボイスに「チーフ・トーテム」の称号を贈った。青年達は幾らかのクーポン券と5セントを郵送するだけでアメリカ・ローンスカウトの会員になれた。1916年までにアメリカ・ボーイスカウトとアメリカ・ローンスカウトは直接会員を取り合うようになった。1917年夏、ボイスが例年通りダコタで狩猟をしているときに、グロヴァント族インディアンが3日間の儀式の間にボイスに「ビッグクラウド」の名前で名誉酋長の位を与えた。アメリカは戦争中だったので、ボイスは1917年遅くにローンスカウトの制服を定めることに合意した。ボイスは自分のための制服を持っていたが、ローンスカウトの誰もそれを購入することを強制されることは無かった。 ボイスは「ローンスカウト」がこれまで作った中でも最良の雑誌だと感じた。「ローンスカウト」は大変人気があったので、送られてくる全ての原稿を取り扱うことができ、田舎や地域の「トライブ・ペーパーズ」が始められた。1922年までにボイスの新聞事業は下降線となり、「ローンスカウト」は赤字だったので、週刊から月刊に変更した。1920年代にシカゴで人種的な緊張関係が高まったときに、ボイスの人種的偏見が露呈した。アメリカ・ローンスカウトは1920年後半に白人のみを受け入れると宣言し、1922年には「ローンスカウト」の題字を「真の少年の雑誌」から「白人少年の雑誌」に変更した。 アメリカ・ローンスカウトの運命は、ボイスが「ローンスカウト」のために初めてプロの編集者ジョージ・N・マディソンを雇った1920年までに減退し始めていた。マディソンはアメリカ・ローンスカウトの会員名簿がかなり間違っていることを見付けた。かなりの数が重複していたり、非活動会員がふくまれていたりしていた。1922年に報告された会員数49万人は相当に膨らまされた数字だった。ボイスは1924年にウェストから毎年のように提案があっていたアメリカ・ボーイスカウトとの統合を受け入れ、6月16日に統合が実現した。ローンスカウトの中にはボーイスカウトに移らなかった者もいたが、アメリカ・ボーイスカウトはその後10年間もローンスカウトを別の支部として扱い続け、その間に特徴あるプログラムが失われて行った。今日のローンスカウトは標準的なカブスカウトとボーイスカウトのプログラムや活動を使っているが、距離、気象、身体障害など他の困難さといった要因ために正規の戦隊や部隊の一部とはなっていない。
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