アメリカのSF界における執筆・編集活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 16:53 UTC 版)
「ジュディス・メリル」の記事における「アメリカのSF界における執筆・編集活動」の解説
ジュディス・メリルがプロの作家として短編のスポーツ小説を書き始めたのは1945年であり、最初のSFが活字になったのはそれより遅れて1948年のことである。彼女の作品の大半(ただし、全てではない)は元フューチャリアン仲間が編集する雑誌に掲載された。彼女はこの時期、ヒドラ・クラブ(Hydra Club)の創設にも関わっている。メリルの短編"Dead Center"(F&SF誌1954年11月号)は、SF雑誌に発表された作品としては、マーサ・フォーリー(Martha Forley)が50年代に編集したアンソロジー"Best American Short Stories"に収録された只2つの作品のうちの1つである。 1950年、第二子のアンが誕生。なおその娘エミリー・ポール=ウィアリー(Emily Pohl-Weary)は、長じてからは作家となり、ジュブナイルおよびSFの分野で活動。また、メリルの死後は遺された書簡やメモを基にその伝記を執筆した。1952年にはポールと別居。翌年には離婚が成立した。この年、ウォルター・M・ミラー・ジュニアと半年ほど同棲した。1960年に三度目の結婚をする。63年にみたび別居に至るが、離婚は成立せず。 メリルはSFアンソロジーの編集を1950年から始め、1985年まで続けた。1956年から67年にかけての『年刊SF』シリーズは特に有名である。アンソロジーの「編者前書き」やその他の著作において、メリルは「もはやSFは孤立しているのではなく、主流文学の一部となるべきである」と活発に論じた。また、1965年から69年の期間には『F&SF誌』の編集部で重要な役割を果たした。 SF研究家のロブ・レイサム(Rob Latham)は2005年に次のように述べている。「50年代を通して、メリルは、SF仲間のジェイムズ・ブリッシュやデーモン・ナイトと共に、この分野に高い文学的水準と優れたプロフェッショナリズムを導入すべく働いた」が「作家たちは『“ミルフォード・マフィア”たちが本来この分野には異質な文学性を奉ってSF独特の良さを駄目にしている』ことに不平を言った。」 メリルが1960年代序盤にシカゴのライオン・ブックス社で手がけたアンソロジーの企画は頓挫したが、それにインスパイアされたハーラン・エリスンはその企画の自分版を推進し、1967年にはアンソロジー『危険なヴィジョン』をダブルデイ社から刊行した。1968年、ニュー・ウェーブ運動の支持者として、メリルはイギリスの最新SFを集めたアンソロジー"England Swings SF"を編集した。
※この「アメリカのSF界における執筆・編集活動」の解説は、「ジュディス・メリル」の解説の一部です。
「アメリカのSF界における執筆・編集活動」を含む「ジュディス・メリル」の記事については、「ジュディス・メリル」の概要を参照ください。
- アメリカのSF界における執筆編集活動のページへのリンク