ほら吹きジョージ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 06:25 UTC 版)
川口は、日本のジャズメンの中でも極め付きの「ほら吹き」として知られた。彼の奇想天外な虚言を真に受けたライターが、ほらをそのままメディアに記し、日本ジャズ史として記してしまった例もあるとされる。 以下は「ほら吹きジョージ」の珍エピソードの一例。 川口の演奏に感激した人々の反応。満州でソ連兵相手に演奏すると、あまりに気に入られて本国ソ連に連れて行かれそうになったため、一升瓶の醤油を飲んで仮病を装うことであきらめさせて、逃げるように内地に引き揚げた。 終戦直後の日本劇場(日劇)に出演した際、たまたま訪れていた地方の興行主が演奏に感激し、札束を荒縄で縛って楽屋に持参し、出演を依頼した。 現金以外をギャラ等としてもらった話。終戦直後に横須賀の米軍キャンプで演奏し、ギャラとして駆逐艦をもらった(B-29をもらったが置き場所がないから飛行場に放置してある、というバージョンもある)。 ポーカーで勝って芝公園を手に入れたが、翌日負けて手放した。 バディ・リッチとドラム合戦を演じて、完全勝利した。 ジーン・クルーパは初来日の前から、川口の存在を「東洋のクルーパ」として知っていた。 ジーン・クルーパ初来日の際、川口のドラムセットを見て自分の楽器を使われていると勘違いして怒った。同じイニシャルの「GK」が書いてあるため。 戦争中のベトナムに慰問に行き、休憩時間にアメリカ軍一個中隊の護衛付きでメコン川を泳いだ。また慰問ライブをしている最中にベトコンの襲撃を受け、メンバーが次々と撃たれる中、最後までドラムソロを止めなかった。飛んできた弾が時々シンバルをかすめて、よりよい演奏になった。脱出の際、ジェット戦闘機に乗り込んだが、パイロットが流れ弾を受け即死。自分が代わって運転し嘉手納基地まで戻り、その後アメリカ軍から勲章をもらった。 あまりにほらが過ぎて、誤った経歴を紹介されることも度々だったが、1958年の松山市公民館で行なわれた白木秀雄とのドラム合戦の最中、会場で殺人事件が起きたというのは事実である。当時の地方興行は地元のヤクザの一家が取り仕切るのが常識だったが、客の中に仕切りをしていた組と対立する組の人間が潜んでおり、コンサートを荒らそうと目論んでいた。ステージで演奏が始まると同時にその組員はステージに乗り込もうとしたが、警備をしていた組員らに囲まれ、あっという間に刺し殺されてしまった。しかし当の川口と白木は勝負に熱中しておりまったく気付かなかった。これが俗にいう「ドラム殺人事件」である。
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