その後のコメット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 03:34 UTC 版)
「コメット連続墜落事故」の記事における「その後のコメット」の解説
初期生産型のコメット1は引退したが、事故当時製作中だった改良型のコメット2は、胴体の外壁が強化されるなどの改造を受けて量産型13機が完成した。しかし連続事故によって評価は失墜しており、日本航空やパンアメリカン航空などの世界各国の航空会社からの全ての発注が取り消されたため、イギリス政府が軍用輸送機として引き取った。また大西洋横断飛行が可能な機体として開発中だったコメット3も発注がなくなったため、1機だけ生産された原型機は主にロールス・ロイス社のジェットエンジンの試験機(フライング・テストベッド)として運用された。 改良型コメットは安全対策に加え、機体ストレッチで収容力を原型に倍する80名級に増大したコメット4(コメット3の改良型、ロールスロイス「エイヴォン (Avon)」ジェットエンジン搭載)として再デビューし、1958年10月4日に世界で最初に大西洋を無着陸で横断する英国海外航空の定期航空路(ロンドン - ニューヨーク)に就航した初めてのジェット旅客機になった。 しかし事故によって失墜した信頼の回復はなお難しかったうえに、4年間のブランクの間にボーイング707やダグラス DC-8、コンベア880といった、より高速で性能が高く、搭載乗客数が100名以上もあるアメリカ製ジェット旅客機がデビューしていたため、世界の航空会社の需要はそちらに流れてコメットの受注は伸びず、1964年にコメット4の生産は79機で終了した。 コメットにはジェットエンジンをロールスロイス「コンウェイ」に換装し、座席を増加させたコメット5の開発計画もあったが、発注がなかったため実現せず、コメットシリーズは全タイプ115機の生産で消滅した。コメットはイギリス以外ではアルゼンチン航空やアラブ連合航空(現在のエジプト航空)などで少数が運用されただけで、世界のジェット旅客機の主流とはならなかった。コメットの商業的耐用年数が過ぎたため、徐々に退役してゆき、コメットが最後の定期航空路線から引退したのはダンエアが運航していたG-SDIW機で1980年11月9日(その後も機体登録は残っていたようだが、結局商業路線に復帰しなかった)であった。 デ・ハビランド社は一連の事故によって業績が悪化し、1959年に同じイギリスの航空機メーカーのホーカー・シドレー社(現在のBAEシステムズ)に吸収合併され消滅した。 一方、コメットはイギリス空軍やカナダ空軍で軍用輸送機として長年運用されていた。1964年にはイギリス空軍が運用していた対潜哨戒機 アブロ シャクルトンの後継機としてコメット4型を母体にしたニムロッドが開発された。もっとも、この機体は胴体下部を拡張したり、兵装スペースを設け、機首をレーダーの収納のために延長するなどしたため、コメットから受け継いだ特徴は主翼根元に埋め込まれたエンジン(ロールスロイス「スペイ」ターボファンエンジンに換装)だけであり、ほとんど別機のようになっている。なお、機体の信頼性が高いため21世紀に入ってから大型化し性能向上型のニムロッドMRA4(ロールスロイス「BR700」搭載)という新型機の量産計画があったが、40億ポンドの予算を投じて数機が製造中であったものの、経費削減のため開発が中止され、機体は廃棄された。コメットは旅客機としては不遇であったが、その末裔の軍用機は半世紀以上たっても空を飛んでいた。
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