その後のキンダ族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 06:03 UTC 版)
詳細は「バヌー・キンダ」を参照 キンダ族が他のアラブを従える時代は終わったが、その後も例えば、7世紀の詩人アァシャーが詠んだ詩における言及を参照すると、前出のハーリスの四男マァディー=カリブの息子カイスが、有力者であったことがわかる。そのカイスの息子アシュアスは、イスラームを受容後、預言者の死後に離反して(英語版)アブー・バクルに攻められた人物である。さらにそのアシュアスの子孫の一部は最初にエジプトに移住したグループになり、ウマイヤ朝の宮廷で重要な地位を占めた人物も輩出していく。さらにその一分枝の子孫は、イスラーム期のイベリア半島の王朝国家の宮廷で重要な地位を占める有力家系になった。 ダマスクスやバスラなどの占領地にはキンダ族が集まって暮らす区画が生まれ、9世紀初頭の詩人アブー・ヌワースはバスラのキンダ族の集住区で生まれたと言われている。なお「キンディー」はキンダ族の庇護民(マウラー)である(又は祖先がマウラーであった)ことを示すニスバである。このニスバを持つ人物としては哲学者のヤァクーブ・ブン・イスハーク・キンディーなどが有名である(詳細はキンディー (曖昧さ回避)を参照)。
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