その後と歴史的意義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/02 16:08 UTC 版)
「ムティナの戦い (紀元前43年)」の記事における「その後と歴史的意義」の解説
元老院派とオクタウィアヌス派の連合軍がムティナで勝ったとはいえ、いまだアントニウスの息の根を止めることはできなかった。アントニウスは見事に敵を欺き、機をとらえて撤退に成功していた。さらに、もともとあやふやな関係だったキケロら元老院派とオクタウィアヌスの関係が決裂したこともアントニウスにとって有利に働いた。ヒルティウスに続いて、パンサも4月22日から23日にかけての夜中にフォルム・ガッロルムの戦いの傷が元で没した。これについても、スエトニウスやタキトゥスはパンサが毒殺された可能性を指摘し、オクタウィアヌスが自身の野望のために手を下したのではないかと示唆している。 2人の執政官が死去したことで、オクタウィアヌスは元老院派の軍団を一人で掌握することになった。ムティナの戦いは、オクタウィアヌスにとって、若輩者からアントニウスとも肩を並べる有力者へと成長する不可欠なステップであった。デキムス・ブルトゥス救援に来たはずのオクタウィアヌスはすぐさま彼への敵意をむき出しにした。カエサルを暗殺した者との協力を拒否したのである。ローマでは、キケロとその支持者たちが対アントニウス戦争の功績をすべてデキムス・ブルトゥスに帰させ、オクタウィアヌスの役割を過小評価しようとしていた。デキムス・ブルトゥスはアントニウスを追撃しようとしたが、オクタウィアヌスはこれを妨害する挙に出た。彼は指揮下の8個軍団をボノニアに留め置き、ウェンティディウス・バッススのアペニン越え阻止の任務を拒否したのである。この数週間で、バッススの援軍を得たアントニウスはアルプス山脈に到達し、カエサル派のレピドゥス、プランクス、ガイウス・アシニウス・ポッリオと同盟を結んだ。今や彼の召集に応じた兵力は、17個軍団と騎兵1万人(プルタルコスによれば、さらに加えてウァリウスの後詰として6個軍団)に上った。自分の兵にも見捨てられたデキムス・ブルトゥスはマケドニアに逃れようとしたが、アントニウスが放ったケルト人戦士たちに捕らえられ、殺された。一方のオクタウィアヌスはローマへ進軍し、キケロら元老院派の人々を屈服させるか亡命に追い込んだ。10月、ボノニア付近でアントニウス、オクタウィアヌス、レピドゥスの3人が直接会談を行い、公式な同盟を結んだ。彼ら3人は11月27日にローマでレクス・ティティアを発布して元老院から国家を支配する権限を奪い取り、いわゆる第二回三頭政治を始めた。3人のカエサル派指導者たちは厳粛に首都へ入城し、全政治権力を掌握し、元老院派の反対者たちに対する無慈悲な追及を始めた。三頭政治官たちはプロスクリプティオを発令し、アントニウスの命で殺されたキケロをはじめ、極めて多数の元老院派の人物が粛清された。 その後、三頭の間での権力闘争の末、紀元前31年にオクタウィアヌスがアクティウムの海戦でアントニウスとその同盟者クレオパトラ7世を破り、元首政(帝政)を始めた。しかしその政治的経歴の中で、彼が政治の中心に躍り出たムティナの戦いは見逃すことのできないマイルストーンである。もしこの戦いが無ければ、オクタウィアヌスはカエサルの後継者としての名声を確保できず、彼とその後継の皇帝たちによる安定した帝国支配も実現しなかったと考えられる。
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