その後と周辺に残る遺構について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/09/30 10:52 UTC 版)
「藤倉山城」の記事における「その後と周辺に残る遺構について」の解説
藤倉山城が廃城となって後、大槻が喜連川足利氏の領地になってからは、当地には明治2年(1869年)まで日枝神社が奉られていたが、現在は、遺構のみを残し、城跡は竹林の中に埋もれてしまっている。また、藤倉山の東の尾根続きの東端には石上神社があり、そこは明神山と呼ばれ古墳時代の古墳が残っているが、この周囲には、堀切や横堀、切岸にも思える遺構が残っており、これが古墳のものなのか、それとも後世に藤倉山城同様、陣城的に築かれたものなのか、はっきりせず、堀切については切通しの可能性も否定出来ないが、藤倉山城との関連で城跡である可能性も充分あるので、今後、研究が必要である。
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