その後と変更など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 01:53 UTC 版)
駅馬や伝馬の使用は特定の者に限られていたが、それ以外の官吏の旅行にも拡大され、駅と伝の使用区分が曖昧になった。規定を守らない不正使用も増大したので、度々指令を出したが効果がなかった。そのため、駅制に重点を置くため、延暦11年(792年)に全国の伝馬を廃止したが、延暦24年(805年)には山陽道以外の伝馬を復活している。律令制度の衰退とともに交通制度は乱れていった。以後は駅路に沿う郡に伝馬を置くことを原則としたらしい。 奈良時代最末期から平安時代初期にかけて、行政改革が精力的に行われたが、駅伝制においても駅家や駅馬、伝馬の削減などが実施され、伝路は次第に駅路へ統合されていくこととなった。ただし、中央の集権が弱まるとともに地域の実情と無関係に設置された駅路は次第に利用されることが少なくなり、国司や郡司の権力が次第に増すと、従来の伝路を駅路として取り扱うことが多くなった。これに伴い駅制が衰退すると、従来の駅路は廃絶していき、残存したのは伝路的な道であっただろうといわれており、存続したとしても6メートル幅に狭められることが多かった(広い幅員の道路を維持管理することには大きな負担が伴うからである)。
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