さらなる特許の戦い、発行特許の行使
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「ゴードン・グールド」の記事における「さらなる特許の戦い、発行特許の行使」の解説
グールドとその弁護士は、Optelecomを設立して間もなく特許戦の焦点を変えた。レーザー自体に関する多くの裁判で敗訴し上訴の選択肢がなくなっていたため、レーザーに不可欠な要素である「光増幅器」に焦点を当てることで多くの困難を回避できることに気づいた。この新たな戦略は上手くいき、1977年に光ポンピングレーザー増幅器をカバーするアメリカ合衆国特許第4,053,845号を取得した。この時までに年間の売り上げが約4億ドルにまで成長していたレーザー業界は長年使用してきた技術のライセンス料を支払うことに反発し、この支払いを避けるために法廷で争った。 業界の反発を受けて、特許庁はグールドの他の出願中である特許の公開を止め、これがさらなる上訴や修正をもたらした。このような状況にも関わらず、グールドは1979年にアメリカ合衆国特許第4,161,436号を取得した。この特許は材料の加熱・気化、溶接、穴あけ、切断、距離測定、通信システム、テレビ、写真複写機や他の光化学応用、レーザー核融合など様々なレーザー応用をカバーしている。業界はこの特許の支払いを避けんとする訴訟を起こした。また、1979年にグールドと彼の資金援助をしていた者たちは、特許権を保持しライセンスと権利行使を統御するためにPatleという会社を設立した。 レーザー業界は特許庁がグールドの残りの特許を発行できないようにするだけでなく、既に発行されている特許も取り消そうとしたため法的な争いが続いた。グールドと会社は法廷と特許庁のreview proceedingの両方で戦うことを余儀なくされた。グールドと彼の弁護士によると、特許庁はグールドがこれ以上特許を取得するのを妨げ、すでに付与された2つの特許を取り消そうとしているようであったという。 事態や1985年にようやく変わり始めた。何年もの法的手続きの後、ワシントンD.C.の連邦裁判所が特許庁へ衝突励起レーザー増幅器に関するグールドの特許を発行するように命じた。特許庁は上訴したが最終的にはアメリカ合衆国特許第4,704,583号を発行しなくてはならなくなり、以前に発行されたグールドの特許を取り消そうとする企てを放棄した。ブリュースター角窓の特許は後にアメリカ合衆国特許第4,746,201号として発行された。 特許庁の訴訟が終了し、グールドによる行使訴訟が続行された。最終的に1987年にPatlexはレーザーのメーカーであるControl Laser社を相手に初めて決定的勝訴を得た。Control Laserは損害賠償と技術のライセンスがなく破産するのではなく、取締役会は和解契約により同社の所有権をPatlexへ譲渡した。他のレーザーメーカーやユーザーはすぐに和解し、Patlexの条件でPatlexからライセンスを取得することに合意した。 グールドが自身の発明の権利を勝ち取るまでに要した30年間の特許戦争は、歴史上最も重要な特許戦争の1つとして知られるようになった。最終的にグールドは48件の特許を取得したが、その中でも光ポンピング、衝突励起や応用特許が最も重要であった。これらの技術は当時使われていたほとんどのレーザーをカバーしていた。例えば、最初に動作したレーザーであるルビーレーザーは光学的に励起されており、ヘリウムネオンレーザーは気体放電により励起されている。 先延ばしになり、その間にレーザーが多くの技術分野に広がったことで、特許の価値はグールドが最初に勝訴していた場合よりもずっと高くなった。裁判費用を工面するために収益の80%とサインしていたにも拘わらず、数百万ドルを得た。 連続して照射できる最初のレーザーを作ったチームの1人であるWilliam R. Bennettは、「私は彼がレーザー増幅器を作るという概念を合法的に持っていると思っていた。彼は私含むレーザーを作っている人々からロイヤリティを集めることができた」と話している。
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