『世宗実録』の于山島とは? わかりやすく解説

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『世宗実録』(1454)の于山島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 07:33 UTC 版)

于山島」の記事における「『世宗実録』(1454)の于山島」の解説

ウィキソース世宗実録地理志原文あります1454年編纂された『世宗実録世宗七年の項には、「于山茂陵等の所で按撫使の金麟‥‥となっており、それまで鬱陵」「武陵」「羽陵」などと呼んでいた島を今度は「茂陵」としている。「于山茂陵等」として、于山茂陵中心になっており、これまでの経緯からその両方鬱陵島指していると考えられる韓国側は、この地理志の記録をもって于山島竹島比定し、以降史料出てくる全ての于山島竹島自動的に当てはめて解釈をしている。また、1417年から1438年まで実施され鬱陵島の刷還政策過程得た竹島知識反映されたとする韓国人学者もいるが、それらを示す具体的な史料現存しない。日本側は、地理志の于山島于山国内容は、過去の『高麗史』や『三国史記』を編集した内容になっている解釈している。 原文世宗実録世宗七年十月乙酉于山茂陵等処按撫使金麟 捜捕本島避役男婦二十人 来復命 初麟領兵舩二艘 入茂陵船軍四十六名 所坐一艘 飄風不知去向 上謂諸卿曰 麟捕還二十餘人 而失四十餘人 何益哉 『世宗実録地理江原道蔚珍于山武陵二島県正東海中 二相去不遠 風日清明則可望見 新羅時称于山国一云欝陵島 地方百里 恃険不服 智證王十二異斯夫為何琵羅州軍主 謂于山人愚悍 難以威来 可以計服 及多以木造猛獣 分載戦船 抵其国 誑之曰 汝若不服 則即放此 国人来降 高麗太祖十三年 其島人 使白吉 土豆 献方物 毅宗十三審察使金柔立等 回来告 島中泰山 従山頂向東行海 一万余歩 向西行 一万三千余歩南行 一万五千余歩北行 八千余歩 有村基址七所 或有石仏鉄鐘 石塔 多生柴胡本 石太祖時 聞流民迯人其島者甚多 再命三陟人金麟安撫使 刷出空其地 麟土地沃饒 竹大如 鼠大如 桃核大於升 風物称是 翻訳世宗実録世宗七年十月乙酉于山茂陵等の所で按撫使の金麟が、役を逃れた男女二十人探し捕まえ復命した。最初、麟兵船二艘で茂陵島に入ったが、船軍四十六名の一艘の所在が嵐で行方不明になった上様(王)は諸卿に「麟二十人余り捕まえて還ったが、四十余り失って何の利益があろうか。」と言った。 『世宗実録地理江原道蔚珍于山武陵二島は県の正に東の海中に在る二島お互いにそれほど遠くなく、天候清明であれば望み見ることができる。新羅時代には于山国称していた。一説鬱陵島と言い百里四方ある・・

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