『世宗実録』(1454)の于山島
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「于山島」の記事における「『世宗実録』(1454)の于山島」の解説
ウィキソースに世宗実録地理志の原文があります。 1454年に編纂された『世宗実録』世宗七年の項には、「于山茂陵等の所で按撫使の金麟雨は‥‥」となっており、それまで「鬱陵」「武陵」「羽陵」などと呼んでいた島を今度は「茂陵」としている。「于山茂陵等」として、于山と茂陵が中心になっており、これまでの経緯からその両方が鬱陵島を指していると考えられる。韓国側は、この地理志の記録をもって于山島を竹島に比定し、以降の史料に出てくる全ての于山島に竹島を自動的に当てはめて解釈をしている。また、1417年から1438年まで実施された鬱陵島の刷還政策の過程で得た竹島の知識が反映されたとする韓国人学者もいるが、それらを示す具体的な史料は現存しない。日本側は、地理志の于山島や于山国の内容は、過去の『高麗史』や『三国史記』を編集した内容になっていると解釈している。 原文 『世宗実録』世宗七年十月乙酉條于山茂陵等処按撫使金麟雨 捜捕本島避役男婦二十人 来復命 初麟雨領兵舩二艘 入茂陵島 船軍四十六名 所坐一艘 飄風不知去向 上謂諸卿曰 麟雨捕還二十餘人 而失四十餘人 何益哉 『世宗実録』地理志 江原道蔚珍縣于山武陵二島在県正東海中 二島相去不遠 風日清明則可望見 新羅時称于山国一云欝陵島 地方百里 恃険不服 智證王十二年 異斯夫為何琵羅州軍主 謂于山人愚悍 難以威来 可以計服 及多以木造猛獣 分載戦船 抵其国 誑之曰 汝若不服 則即放此獣 国人懼来降 高麗太祖十三年 其島人 使白吉 土豆 献方物 毅宗十三年 審察使金柔立等 回来告 島中有泰山 従山頂向東行至海 一万余歩 向西行 一万三千余歩 向南行 一万五千余歩 向北行 八千余歩 有村落基址七所 或有石仏像 鉄鐘 石塔 多生柴胡蒿本 石南草 我太祖時 聞流民迯人其島者甚多 再命三陟人金麟雨 為安撫使 刷出空其地 麟雨言 土地沃饒 竹大如柱 鼠大如猫 桃核大於升 風物称是 翻訳 『世宗実録』世宗七年十月乙酉條于山茂陵等の所で按撫使の金麟雨が、役を逃れた男女二十人を探し捕まえ復命した。最初、麟雨は兵船二艘で茂陵島に入ったが、船軍四十六名の一艘の所在が嵐で行方不明になった。上様(王)は諸卿に「麟雨は二十人余りを捕まえて還ったが、四十人余りを失っては何の利益があろうか。」と言った。 『世宗実録』地理志 江原道蔚珍縣于山・武陵の二島は県の正に東の海の中に在る。二島はお互いにそれほど遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅時代には于山国と称していた。一説に鬱陵島と言い、百里四方ある・・
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