「定説」としての『赤い靴』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 23:50 UTC 版)
「赤い靴」の記事における「「定説」としての『赤い靴』」の解説
歌詞は、実話を題材にして書かれたという説がある。 野口雨情は1907年(明治40年)に札幌の北鳴新聞社に勤めていたときに岩崎かよという女性と知り合った。「定説」によると、この岩崎かよの娘・佐野きみ(1902年(明治35年)7月15日 - 1911年(明治44年)9月15日)がその赤い靴を履いていた少女のモデルとされた(「佐野」は戸籍上の名前)。 岩崎かよは静岡県清水市有渡郡不二見村(現在の静岡市清水区宮加三)出身で、山梨県の紡績工場に働きに出ていたが、1902年(明治35年)に身重となり、1人で帰郷してきみを生んだ。かよは1903年(明治36年)に北海道に移民として渡り、そこで鈴木志郎らとともに平民社農場で開墾に携わった(1906年(明治39年)に鈴木志郎と結婚)。しかし、開拓生活の厳しさもあり、1905年(明治38年)〜1907年(明治40年)頃に娘のきみを養女に出したという。かよは娘・きみの養育をアメリカ人宣教師のヒュエット夫妻に託すことになった。やがてヒュエット夫妻は本国に帰る事になったが、その時きみは結核に冒されており、渡米できず、東京・麻布の鳥居坂教会の孤児院「永坂孤女院」に預けられることになった。きみは孤児院で母親に会うこともできず、9歳で亡くなったという。母親のかよは、きみはヒュエット夫妻と一緒にアメリカに渡ったものと思いこみ、東京の孤児院で結核で亡くなったことを知らないまま一生を過ごした。 野口雨情は1907年(明治40年)に札幌の北鳴新聞社に勤めていたとき、鈴木志郎と妻のかよとの親交を深め、娘のきみの話を聞かされた。その後、1921年(大正10年)に、この話を題材にして『赤い靴』が野口雨情によって作詞され、1922年(大正11年)に本居長世作曲で童謡になった。 1973年(昭和48年)、きみの異父妹・岡その(鈴木志郎とかよの三女)が、新聞に「私の姉は『赤い靴』の女の子」と投書。この記事に注目した北海道テレビ記者の菊地寛が調査を開始した。菊地は5年にわたる取材ののち、上記の事実を確認し、1978年(昭和53年)に『ドキュメント・赤い靴はいてた女の子』というドキュメンタリー番組を北海道テレビで制作・放送した。その後、菊地は、ノンフィクション小説『赤い靴はいてた女の子』(現代評論社刊)を1979年(昭和54年)に発表、この本の記述が「定説」として定着したとされる。[誰によって?]
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