「カルヴィ暗殺事件」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/18 15:50 UTC 版)
「リーチオ・ジェッリ」の記事における「「カルヴィ暗殺事件」」の解説
ジェッリは「P2事件」後に逮捕されるまでの間、1975年にアンブロシアーノ銀行の頭取に就任したカルヴィの協力の元に、アンブロシアーノ銀行とバチカン銀行を経由したマネーロンダリングと不正融資を続けていたが、不明朗な資金の流れはイタリア政府関係者やイタリアをはじめとする各国のマスコミの疑念を呼ぶこととなった。その結果、アンブロシアーノ銀行は1981年から1982年にかけてイタリア中央銀行による大規模な査察を受けることとなり、およそ10-15億アメリカドルに上る使途不明金を抱えていたことが明らかになり、1982年5月に破綻した。 なおカルヴィは、アンブロシアーノ銀行の破綻とそれに伴う議会の公聴会への招聘の直前に、偽造パスポートを使い国外に逃亡していたが、6月17日に、イギリスの首都、ロンドンのテムズ川にかかるブラックフライアーズ橋の下で「首吊り死体」の姿で発見されたため、当事者のバチカンとイタリア、イギリス政府のみならず、全世界を揺るがす大騒動となった。 カルヴィの死体が発見された当時は単なる自殺であるということで片付けられたものの、死体の位置が自ら首を吊ったとするには無理がある状況であったり、なぜか衣服のポケットに別の場所で入れられたと見られる小石や煉瓦が入っていたりと、死体の状況が単なる自殺とはあまりにもかけ離れた状況であることから、その後遺族らによって再捜査を依頼されたスコットランド・ヤード(ロンドン市警)が再捜査を開始し、最終的に1992年に他殺と判断された。また、イタリア警察当局も2003年7月にカルヴィの遺族の依頼により遺体を掘り起こし再鑑定した結果、「他殺され発見現場に運ばれた」との判断を下している。 その後行われた捜査と裁判の過程の中で、イタリアの司法当局への情報提供者と転向したマフィアの構成員のフランチェスコ・マリーノ・マンノイアは、1991年7月に「カルヴィが殺害された原因は、アンブロシアーノ銀行破綻によりマフィアの資金が失われた報復であり、実際にカルヴィを殺害したのは当時ロンドンにいたマフィアのフランチェスコ・ディ・カルロであり、殺害命令を下したのは『ロッジP2』のジェッリ元会長と、マフィアの財政面、主にマネーロンダリングに深く関わったことから『マフィアの財務長官』と呼ばれたジュセッペ・ピッポ・カロ であった」と暴露した。 その後もイタリアの司法当局による捜査は続き、2005年4月18日に司法当局は、カロとジェッリ、カルボーニ、ディオタッレーヴィとカルヴィのボディガードだったシルヴァノ・ヴィットールら5人を、カルヴィに対する殺人罪などでローマ地方裁判所に起訴した。 同年10月には裁判が開始され、その後2007年3月に検察官のルカ・テスカローリは、これら5人の被告に対してカルヴィ殺害に関与した容疑で終身刑を求刑した(なおカロは、1984年12月23日にフィレンツェとボローニャ間を走る急行列車の爆破テロを指示した他、64件の殺人罪と麻薬密輸罪など136件の犯罪に関与した容疑で終身刑4回の判決を受け、1987年より服役していた)。しかし、2007年6月6日にローマ地方裁判所はジェッリを含む5人の被告全員に対して「証拠不十分」として無罪判決を下した。
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