「イラクの自由」作戦
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「第7騎兵連隊 (アメリカ軍)」の記事における「「イラクの自由」作戦」の解説
2003年3月22日、テリー・フェレル(Terry Ferrell)中佐に率いられた第3大隊は第3歩兵師団の前方偵察部隊として、「イラクの自由」作戦に投入され、多くの戦闘に参加した。 ウィリアム・R・サルター中佐(William R. Salter)を指揮官に迎えた第1大隊は、第1騎兵師団第5旅団戦闘団の一部として2004年4月1日から2005年4月1日まで行われたイラクの自由作戦II(Operation Iraqi Freedom II)に派遣され、バグダードのアルラシッド地区を巡る激戦やバグダード空港道路(英語版)(ルート・アイリッシュ)の守備任務にも参加した。また2005年1月に行われた民主選挙の折には第1大隊が警備を行った。こうした任務における貢献を称え、第1大隊はイラク派遣中に部隊功績章(Meritorious Unit Citation)を受章している。 その後、第1大隊はケヴィン・S・マクワッターズ中佐(Kevin S. MacWatters)の指揮下で第1騎兵師団第1旅団に武装偵察中隊として配置され、2006年10月6日から2008年1月15日までのイラクの自由作戦06-08に派遣された。またバグダード多国籍師団(Multi-National Division-Baghdad, MND-B)にも参加し、タジ地区に展開して即席爆発装置(IED)および自動車爆弾(VBIED)の探索と排除に従事した。 第7連隊第2大隊は当初第1騎兵師団第3旅団戦闘団に配置されたが、まもなく第39旅団戦闘団に移っている。イラク派遣時の指揮官はチャールズ・フォーシー中佐(Charles Forshee)。イラク派遣から7週間でフォーシー中佐は更迭され、後任としてジェームズ・ユージン・レイニー(James Eugene Rainey)中佐が派遣された。2004年8月、第2大隊はナジャフの戦い(英語版)に従事する米海兵隊部隊を支援するべく前線に派遣された。現地に展開していた第11海兵遠征部隊(英語版)の指揮官トニー・ハスラム大佐(Tony Haslam)は、後にナジャフの勝利は勇敢な第2大隊将兵の奮戦あってのものだと述べた。11月、ファルージャの戦いの折、第2大隊は再び海兵隊の支援に向かった。 その後、第2大隊はフォート・ブリスに送られ新設の第4旅団戦闘団に配置される。2006年10月、再びイラクに派遣されモースルに展開した。 2007年12月、米本土に戻る。2008年、イラクの自由作戦08-10の支援部隊として再びイラクへ送られた。大隊はアマラに設置されたギャリーオーウェン前線基地(FOB Garryowen)を拠点に、マイサーン県北部全域の占領任務に従事した。この間、2004年12月に発生した英軍憲兵殺害事件の犯人を追っていたイラク警察の捜査に協力し、容疑者逮捕作戦にも参加した。2009年1月のイラク地方選挙における保安任務にも従事し、実際にいくつかの大規模な隠匿火器集積所を摘発している。 第7連隊第5大隊は1978年に非活性化されていたが、陸軍の提唱したモジュール化プログラムの一環として、第3歩兵師団から抽出された3個防空砲兵大隊を基幹とする再編成を受けて2005年に装甲偵察大隊として再配置された。その後、指揮官にクリフ・ウィーラー中佐(Cliff Wheeler)を迎え、第1旅団戦闘団配下部隊としてラマーディーに配置された。2007年4月、第6海兵連隊戦闘団の支援部隊としてラマーディからハッバーニーヤ湖(Habbaniyah)南部、およびファルージャを通る連絡道路ルート・アイロン東部までの掃討作戦に従事する。火力および機動力に優れていた為、第5大隊は掃討作戦において最も広い担当区域が割り当てられていた。その後第5大隊は8ヶ月の間、現地の保持の為に保安任務・対反乱任務に従事し、ルート・ミシガン、ルート・アイロン、ルート・サンフアン、ルート・ゴールドなどの連絡道路、およびサクリウィヤ(Saqliwiyah)、北サクリウィヤ、アーマリーヤ(Amariyah)、ファリス(Farris)などの街の安全を確保・維持し続けた。2007年12月、大隊は2個海兵ライフル大隊と交代する形でカルス前線基地(FOB Kalsu)の第3歩兵師団第2旅団戦闘団配下に移る。彼らはそのままサヤフィヤの街に対する攻撃および掃討作戦に備えて追加の訓練を受ける事になる。第5大隊はミード前哨地点を設置し、これを拠点に全ての主要道路を確保、担当作戦地域内の全ての建物および道路の掃討を行った。2008年3月にこれらの任務を完了し、4月には第187歩兵「ラッカサンズ」連隊と交代する形で米本土のフォート・スチュワートに送られた。その後の20ヶ月間、第5大隊は第1重旅団配下部隊として、文官防衛支援任務(Defense Support of Civil authorities, DSCA)の一環として化学・生物・放射能・核・爆発物対策任務(Chemical, Biological, Radiological, Nuclear, Explosive Consequence Management Reaction Force, CCMRF)に従事した。DSCAとは事故・災害など何らかの重大な事態が発生した場合の州政府など地方行政、および連邦政府の要請に基づく出動に備えた待機および訓練を意味する。
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