「およし道路」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 03:20 UTC 版)
山陰本線のルート決定前、当時の鉄道院総裁だった後藤新平が鳥取に視察に来た。この時に、岩井温泉の「木嶋屋」の女将の木嶋与志(「木島よし」など異表記がある。本項では「与志」で統一)は後藤総裁の知遇を得た。それ以来、与志は東京の後藤総裁のもとへ陳情にあがり、山陰本線の誘致を行った。陳情の効果もあって、原案では海側ルートだった山陰本線は、岩井温泉の近くを通るルートになった。 とはいえ、新駅の岩美駅から岩井温泉までは直線距離で4.0kmだったが、実際にはいちど新井地区まで迂回して山陰道まで戻る必要があった。このため与志は駅と温泉を結ぶ短絡路の建設を訴え、1912年(明治45年)にこの道路が実現した。地元ではこの道路を「およし道路」と呼んだ。1924年(大正13年)に刊行された『全国温泉案内』では、岩美駅から温泉までは「僅かに三十町」(約3.3km)であり、道のりは平坦なので岩美駅から徒歩でもすぐである、と紹介している。他に駅前からは自動車(40銭)、人力車(50銭)、馬車(30銭)の交通の便があった 一方この頃、荒金銅山では銅鉱石の採掘が本格化した。1912年(大正1年)から銅鉱石の輸送におよし道路を使うようになった。1913年(大正2年)に鉱山の所有者がかわって設備投資が行われて産出量が増え、1914年(大正3年)にはじまった第一次世界大戦によって需要が高まり、鉱石の出荷は躍進した。鉱石は、鉱山からトロッコとインクラインで相山まで運び、そこから温泉まではトロッコ、温泉で馬車に積み替えて岩美駅まで運んだ。荷馬車隊はいちどに20数輌で、これが毎日何往復もしたために、およし道路はあっという間に傷んでしまい、朝に整備しても夕方には通行不能になるような有様だった。 岩井村は鉱山に道路の補修費を負担させたが、鉱山の排水による鉱毒問題で周辺農家への補償費がかさんだり、1918年(大正7年)の大洪水 で復旧費用が膨らんだりして、道路の維持が困難になってきた。そこで村で協議を行い、鉄道(軌道)を敷設することにした。1920年(大正9年)に議決、「およし道路」の拡幅を行うとともに、軌道敷設の申請を行い、1921年(大正10年)11月30日に「岩井村営自働車軌道」として認可を得た。
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